明〜ジャノメ姫と金色の黒狼〜第2話 ジャノメ姫(3)
明け方、アケはこっそりと屋敷を抜け出す。
標高の高い猫の額はどこよりも日が昇るのが早く雲海を赤く染める。
アケは、敷地内の小川の前に立つと爪先を太陽に向けて歩み出す。まだ、日が届かないので墨汁のように黒い小川だが、水のせせらぐ音は小鳥が歌っているように心地よい。
アケは、足と心を弾ませながら日と小川を道標に敷地を抜け、森の中を進んでいく。その途中でクズやノビルが生えているのに気づくがまた明日と目もくれない。
森を抜けると岩と砂利に囲まれた大きな分水嶺が広がる。雲海を抜け出し朝日が緩やかに流れる清水を煌めかせ、赤く焼けた空を水面に映す。
アケが水面を覗くとまだ眠っているのか、動きの緩慢な虹鱒が水の底を出す漂っている。
アケは、森の近くで手頃な長さとしなりのある枝を拾い、木に絡まった蔦を引きちぎり、葉を落として丁寧に捻る。屋敷から持ってきた縫い針の穴に自分の毛を抜いて紐がわりに蔦の先に結びつける。そして河原の石を退かし、虫を見つけて「ごめんね」と謝って突き刺せば、自家製釣竿の完成だ。
「目指せ大漁!」
そう叫び、竿を振り上げ、餌の付いた針を水面に落とす。
さあ、後は待つだけだ。
アケは、着物が汚れるのも気にせずに砂利の上に座り、虹鱒が食いつくのを待った。
たくさん釣れたら塩焼きだけでなく、ナギが持ってきてくれた小麦粉を使ってフリットにして、パンに挟もう。
アケの脳裏に嬉しそうに虹鱒のフリットのサンドウィッチを頬張るツキの顔が浮かぶ。
それだけで今日も1日頑張れる。
楽しい1日になる。
ふと、ナギが言った言葉を思い出す。
『楽しそうですね・・・姉様』
確かに私は笑うようになったかも知れないと思う。
いつ死んでもいいと思っていた、この世界なんて無くなってしまえばいいっと思っていた自分はいつの間にかいなくなっていた。
あの人のお陰で・・・。
アケは、嬉しそうに頬を赤らめ、鼻唄を歌いながら釣りに勤しんだ。
そのアケの背後に忍び寄るものがいる。
呼吸もせず、音も立てずにゆっくりとゆっくりとアケの背後へと忍び寄る。醜く膨れた五指から伸びる鋭い爪から汚れた液体が垂れる。それはアケの背後に付くと腕を振り上げ、液の滴る爪をアケに向けて振り下ろす。
炎が走る。
鈍く大きな牙がアケを襲おうとしたものの腹を砕く。
岩の砕けるような音にアケは振り返るとそこに全身を炎で覆った火猪が立っていた。
その牙に突き刺さっているのは蝙蝠のような翼を生やした頭髪のなく、異様に目の大きく、歪んだ口を携えた子どものような大きさの石像であった。
「貴方は・・・」
火猪は、アケを一瞥すると牙に突き刺さった石像を首を振って投げ下ろす。
石像は砂利の上に落ちて砕け散る。
「ガーゴイル!」
アケは、息を飲み込む。
砂利を踏み締める音がする。
火猪は、アケの前に立つ。
現れたのは十は超えるガーゴイルと灰色の司祭の法着を纏った2人の人物、人は金髪に白髪の混じった初老の男、もう1人はガーゴイルのように頭髪のない、苦虫を噛んだように表情を浮かべた若い男だった。
「火猪を手懐けるとはさすがジャノメ姫」
初老の男が恭しく頭を下げる。
"ジャノメ姫"と言う言葉にアケは表情を固くする。
「・・・邪教・・・」
アケが固く、少し恐怖の混じった声で言う。
「邪教と呼ぶな!」
若い男が表情を醜く歪め、右手を振り上げる。
アケは、とっさに身体を後ろに反らす。
前髪が千切れ、宙を舞う。
若い男の右手には猫の尾のように黒く、しなやかな鞭が握られていた。
「ほうっ」
初老の男が感心したように呟く。
「今のを見切るか」
前髪の乱れたアケの額、その隙間から覗くのは丸く、白く、赤い縦の瞳を携えた大きな目であった。
赤い目は震えるように瞳を揺らし、瞬きする。
アケは、前髪が乱れてることに気づき、慌てて直す。
「これが蛇の目」
「なんとも醜い」
若い男が嘲笑する。
蛇の目がきっと2人を睨む。
その冷たい鋭さはまさに蛇の目。
「そんなに怒らないで頂きたい。我々は"そちらの目"に興味があるわけではありません」
「我らの目的は、あの方をお連れすることだ。貴様のような化け物など無価値も良いとこだ」
若い男が吐き捨てるように言う。
化け物・・・。
アケの脳裏にその言葉が繰り返される。
なんて醜い・・・。
これが我が子だなんて・・・。
化け物・・・。
さっさと死ねばいい・・・。
アケは、着物の裾を握りしめる。
火猪は、獰猛な目を揺らす。
「ふごう」
火猪は、小さく鳴く。
まるで慰めるように。
蛇の目が驚いたように大きく見開く。
火猪の目はもう敵に向いていた。
大きく口を広げて砂利を咥える。
「さあ、では・・・」
初老の男が腕を上げる。
ガーゴイル達が翼を広げ、浮かび上がる。
「死んでください」