平坂のカフェ 第4部 冬は雪(29)
白い闇が晴れる。
まるで長く姿勢が悪いままに眠ってしまった日のように頭が重く、痛い。
眠る?
平坂のカフェで眠るなどあり得ない。
少なくてもスミに眠る記憶などない。
ない・・・はずだ。
自分は、誰かがカフェに来るまで何も話さない。
ひたすらにこれから来る誰かの為にコーヒーを準備している。
それだけのはずだ。
スミは、空いている手で自分の腹を触る。
そこには痛みもなければ赤い血も出ていない。
カナは、スミの手を握ったまま黒と白の双眸を向ける。
「また何か見えたの?」
カナは、問う。
「顔色が悪いよ」
スミは、「ああっ」と小さく頷く。
「どうやら君のご主人の話しを聞いて感情移入をしすぎたようだ。あり得ないはずの映像が私の中に流れてくる」
「そう」
カナは、スミから視線を外し、雪の降り続ける桜の木の絵を見る。
「桜の木・・・」
「んっ?」
「あの桜の木・・・ずっと見てるんでしょ?」
「まあな。誰も来なければあの桜の木だけが私の相棒だ」
「話しかけたりするの?」
「いや・・・」
スミも首を後ろに向けて桜の木の絵を見る。
「桜の木は、話したりしない。ただ移りゆくだけだ」
そう移りゆくだけ。
そこには何の感情も存在しない・・・存在しないはずだ。
しかし・・・。
「だが見てしまう」
「えっ?」
「気がついたら桜の木を見てしまう。その奥にある何かを見ようとしてしまう・・・ことがある。それが何なの分からないけど・・・大事なものなのだと思う」
スミの手を握るカナの手に力が入る。
「話していい?」
カナが訊く。
「続きを話してもいい?」
「構わないが・・・大丈夫なのか?」
スミの日に焼けたような赤い目が揺れる。
カナは、首を横に振る。
「大丈夫じゃないよ。言葉を一文字一文字話す度に身体と心が無数の棘のついた器具で削ぎ落とされるみたいに痛い・・・」
「なら話すことはない。もう止めるんだ」
それは平坂のカフェで絶対に発せられることのない言葉だった。
「カナが辛いことは・・・しないでくれ」
カナは、焼きごてを押し付けられたように顔を上げる、
そして微笑む。
「初めて・・・初めて名前を呼んでくれたね・・」
スミの脳裏でカナの顔と誰かの顔が重なる。
「でも・・・話す。話すわ。それが・・・」
カナの黒と白の目に熱がこもる。
「それが私がここに来た理由だから」
#短編小説
#平坂のカフェ
#白い闇
#眠る
#ここに来た理由