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平坂のカフェ 最終話 四季は太陽(9)
デセールのティラミスを作り終えた途端に身体から力が抜け、スツールに腰を下ろす。
2年間の療養とリハビリで体力はほとんど戻ったと自負しているがやはり30人前以上作るのは疲れる。
調理台の上には出来上がったばかりの大皿に盛られた料理達がお互いを主張しながらも相手を尊重するように整然と並んでいた。
生ハムに鯛と鮪のカルパッチョ、トマトと手作りのパテを載せた2種類のプルスケッタにトマトとモッツァレラチーズのカポネーゼ、ブイヤベースにミネストローネ、アクアパッツァ、ミラノ風カツレツ、数種のパスタにピッツァ、デセールにティラミスとマリトトッツオに冷凍庫にカタラーナやジェラートも入っている。
そして極め付けは甘い卵焼きとタコさんウィンナーだ。
どれだけ豪華な料理を作ってもこれだけは外さない。
ビストロの裏メニューにしようかと思うくらいだ。
俺は、シェフコートの襟を少し緩める。イタリアでの修業時代から着ているので少し草臥れてきているものの、久しぶりに着た時はその着心地の懐かしさに涙が出そうになった。コートの裏地にはイタリアの綴りで"スミ"と名前が刺繍されている。
今日は、この店で2つの催しがある。
1つはこの店、俺の経営するビストロのオープニングセレモニー。
そしてもう1つは俺と最愛の妻であるカナとの結婚式だ。
俺は、1年以上昏睡状態だったらしい。
"らしい"と言うのは当然だが俺はその時のことを何も覚えていない。
俺が覚えているのはカナに襲い掛かろうとする安っぽいカラスのラバーマスクを被った"鳥頭"に腹を滅多刺しにされたこと、目を覚ますと白い天井が視界いっぱいに広がっていた。そこが病室で、ベッドの上に寝ているなんて考えも及ばなかった。
シーツを被る俺の胸元にカナが顔を埋めていた。
白いシーツの端が赤く染まる。
だらりと垂れ下がった手首から床を埋めるほどの大量の出血をしていた。
俺は、狼狽し、泣き叫んだ。
何が起きているのか分からないままにら必死にカナの名を呼び続けた。
カナ・・・カナ・・・カナ!
頼む目を覚ましてくれ!
俺を置いていかないでくれ!
死なないでくれ!
病室にカナの友人の社長とお義母さんが飛び込んでくる。
「助けてください!」
俺は、必死に叫んで助けを求めた。
お義母さんがカナに駆け寄り必死に名前を呼ぶ。
2人を追いかけてきた看護師がナースコールをおす。
カナの目がうっすらと開く。
黒と白の目がお義母さんを見て、そして俺を見る。
カナは、嬉しそうに微笑み、左手で俺の頬を触る。
「お帰りなさい・・・」
カナが何でそんなことを言ったのか分からなかった。
分からなかったけど、俺は頬に伸ばされた手をぎゅっと握った。
「ただいま」
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