【知られざるアーティストの記憶】第35話 母親への願い
Illustration by 宮﨑英麻
第6章 プラトニックな日々
第35話 母親への願い
プラトニックで
とあなたは言うけれど
私の本音は
“あなたに触れたい”
それは二つの意味において
ひとつは
私の恋心にとっては
そのほうが自然であるから
過度でない
お互いに心地よいと思える
触れ合いがしたいよ
関係は
お互いが望む形にしか
なりえない
もうひとつは
あなたの体のため
私と一緒にいる限り
私はあなたを
再発させない
つもりでいます
だからあなたに触れさせて
決してプロの腕ではないけれど
家族を守るための技
昔に習った整体のお手当てや
友達から習う中医学の足つぼケアで
あなたを病気から守りたいから
マリの手紙(要約)
彼がなかなか読もうとしなかった手紙には、だいたいこのようなことが書かれていた。マリは彼との関わりの中で、この願いをずっと持ち続けた。実はこのあと、ある局面を経て、彼がまず二番目のほうの理由でマリの願いを受け入れる決心をするのであるが、それはもう少しだけ先のことである。
「あなたは私のことを、どう感じてくれているんですか?」
マリは彼の部屋の縁側に腰をかけ、彼にそう訊いてみた。その質問への彼の答えは驚くべきものであった。彼は答える前に、このことをこの人に話しても良いものか、とマリのことを吟味するように眺めてから、意を決してこう切り出した。
「それかあ……。霊魂のことを昨日あなたは話しただろう?」
昨日、確かにマリはスピリチュアルな話題を彼にしてみたのだった。論理的思考や思索が得意で、宗教や哲学の知識も深い彼が、スピリチュアルな世界観をどう捉えるのかに興味があったのだ。
「私の次男がね、特に幼い頃ですが、人には見えないものがどうやら見えていたみたいなんですよ。人の背後についているものが見えたり、怖いものが憑いている人のことを怖がって、その人と同じ空間に居られなかったりとか、ものすごく敏感で。近所に中国の『ひょうたん笛』の世界で5本の指に入る奏者がいるんですが、その人の家に行って演奏が始まった途端、次男が急にその場で頭を抱えてうずくまって、『ごめんなさい、ごめんなさい』って叫び出したこともありました。どうやら彼がその笛を吹くと、精霊みたいなものを呼び寄せることもあるそうで。次男には怖かったみたいです。そういうことって、信じます?私は子どもの頃から、唯物論しか認めない両親のもとで育ったので、そういうこと一切信じて来なかったんですが、もうその次男の言動が、次男には私たちには見えないものが見えているって仮定したほうが説明がつくことばかり次々と起こしてくれたんで、私は信じるしかなくなりました。」
マリはこの他に、次男がマリの妹に急にべったり懐いたかと思ったら、ある日突然に、
「名古屋の人が死んじゃったあ!」
と取り乱してギャン泣きし、同じ日に名古屋に住む妹から
「彼と別れちゃった……。」
と涙の電話をもらったこと、それを境に次男は妹の名前を呼ばず「名古屋の人」と言うようになり、妹が遊びに来ても怖がって完全に避けるようになったこと、そのことに妹が傷ついてしまったことが原因で、それから今に至るまでマリと妹は疎遠になってしまっている経緯を詳しく話した。
マリはなんとなく、彼はマリの父と同じようにこういう話を一切否定するような気がした。ところが彼は、否定するどころか、当たり前のようにその話を聞き入れ、むしろ次男のその特性に興味を持った。
「次男くんは、私に会えば私の寿命がわかるんじゃないかな?」
「えー、まさか。それはわからないと思いますよ。次男にそういう力があったのは昔のことだから。それに、そんなことって聞きたいの?」
「聞いてみたいよ。」
マリは呆れた目で彼を見つめた。
マリが唯物論を基盤に育てられたということに関しては、彼はちょっと寂しそうな顔をした。
「私は……、唯物論は取らない。なぜなら私は描き手だから。手塚治虫だって唯物論じゃない。唯物論の世界で作品を書いたら、無味乾燥の世界で、何一つおもしろくもないよ。」
そんな会話を昨日したのだった。
その日、マリの質問に答えて、彼は次のような話をした。
「実は私は、弟が頭部骨折で入院したときに、亡くなった母親に、弟を守るようにお願いしたんだよ。」
彼の母親が亡くなったのは2019年6月12日、そして、彼の弟が頭部骨折という大怪我で入院したのはその1年後の2020年6月のことであった。ちなみにマリが公園での気功を始めたのは2020年4月からなので、ちょうど彼のことを認識し始める頃である。
「そうしたら、誰も居ないはずの二階からゴトンと大きな音が聞こえたり、台所でゴキブリがふんを撒き散らしたということがあった。弟は、出血した血の塊が運良く散って、一命を取りとめた。ゴキブリがふんを散らすということと、血の塊が散るということ、共通点を感じない?私は、これは母親が知らせたような気がした。弟が助かるよ、と。おかしいかい?だって、ゴキブリがふんを散らすなんてこと、あとにも先にもこのときだけだから。」
彼は、おそらく誰も信じないであろう自分の感覚を、もしかしたらこの人ならわかってくれるだろうかと、恐る恐るマリの前へ出してみたのだった。マリは大きく頷きながら彼の話を聞いた。
「あなたがそう感じたのなら、それはお母さんからのメッセージなのだと思うよ。」
「そのときに母親にもう一つ、
『私の前に女性を登場させてください』
ってお願いしたんだよ。そうしたら、あなたが現れた。」
そう言うと彼は、少しだけニコッと笑った。
マリは絶句した。
お母さんに、呼ばれたの、私?
どうして私なの、お母さん。こんな、既婚者の。彼のことを完全に幸せにしてあげられないのに。
私でよかったんでしょうか?
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。