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【知られざるアーティストの記憶】第64話 漢方内科でのコミュニケーションと彼の望む死にかた
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第9章 再発
第64話 漢方内科でのコミュニケーションと彼の望む死にかた
マリは漢方内科のF医院に一旦彼を降ろし、三男を保育園に届けてから再びF医院に戻った。予約なしの受診だったので、小一時間を待合室の椅子に並んで過ごした。新しくて清潔感のある待合室には絵本や医学書などが小綺麗に並んでいて、マリはそれらをキョロキョロと眺めながらこの医院の考えを読み取ろうとしていた。
彼は以前マリにくれた母親のものとよく似たムートンブーツに包んだ足を投げ出して、黙って座っていた。このところ何度か病院などで見ることのある「社会の中の彼」は、マリと二人で過ごすときの彼とは少し違って見えた。どうしてマリを相手にならあんなにこなれたスムーズなコミュニケーションができるのに、知らない人の中に行くとこのようにぎこちなさを纏ってしまうのだろう。彼はさしあたりコミュ障な人間のように見えた。
F医院の院長は気弱で優しそうな感じのする40そこそこの男の先生であった。診察室でこの先生に差し向かい、受診に至った経緯を彼がぽつぽつと話すのを、マリは隣に座って聴いていた。彼の話が要領を得ず、時に展開が突拍子もないことはいつもの通りであったが、それはマリには許されても、この若き院長先生には伝わらないであろうことをマリは案じた。案の定、必死に彼の話の意図を汲もうとしていた院長先生の目が次第に泳ぎ始めたのを見て、マリは口を挟もうかと思いあぐねたが、結局は最後まで見守った。マリの中には、彼とは家族ではないという遠慮が小さく棲みついていたのである。
彼の話の中からかろうじて、彼がT大学病院にかかっているということを理解した院長先生は、やっと現実世界に戻って来られたような顔をしながら、
「それですと、T大の先生からの紹介状などがなければこちらでお薬を出すことは難しいですね。」
と、つまらない答えをさぞ申し訳なさそうに言った。そういう仕組みかもしれないが、ここらの開業医の間ではT大学病院の名前は恐れられているのかもしれない、とマリは感じた。こうして彼の思い付きによる受診は、新しい診察券と初診料と待ち時間を無駄にしただけに終わった。
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「西部邁という経済学者を知ってる?保守派だけれど。私は西部のことを敬愛している。」
彼はそう言ってからはたと中断し、
「……いや、敬愛じゃないな。」
と慎重に、もう一段低い意味の言葉(註1)に言い換えた。
(註1)彼が選び直した言葉を、今はもう思い出せない。むつかしい言葉ではなく、そのときのマリも知っている言葉で、「敬愛」よりも意味を少し下げたな、と感じたことだけは覚えている。
マリは大学で経済学を専攻していたが、西部邁という人を知らなかった。もとい、マルクスに傾倒していたため保守派の学者には縁がないのも無理はなかった。一方、彼はマルクスの理論を通して世の中の枠組みを理解したが、おそらくはどこかの時点で左翼の思想にも幻滅して、右翼つまりは保守派の理論に傾いたようである。
(キタ……。)
とマリは身震いした。革新的な思想を持つ家庭で生まれ育ったマリにとっては、「保守派」と聞くだけで体が拒否反応を示す、いわば踏み絵のようなものであった。
(この先、彼が保守的な思想を丸出しにしてきたら、私は彼のことを理解し愛し続けることができるかしら?)
という不安が一瞬マリの頭をよぎったが、もしもこの先、マリが理解しかねる言動を彼が取るようなことがあれば、そのときに考えればよいことだ、とマリは思い直した。先入観を持たずに目の前の彼を見るのだ、と。
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「その西部が、数年前に自分で川に入って自殺したんだよ。手と足を紐で縛って重りをつけて川に飛び込んだ。自分の死にかたは自分で決めるんだって。私は西部の思いが理解できるような気がする。私はこの先もし再発したら、次に使える薬はもうないんだよ。そのうちに立てなくなる。若い看護師さんにオムツを替えてもらわなきゃならなくなるとしたら?はたして自分の死にかたとは何かと考えてしまう。」
「ええっ?……そんなあ。溺れて死ぬのって、たぶんいちばん苦しいよ?やだよ!」
マリが騒ぐと、
「そんなのは一時のことだよ。」
と彼は平然と答えた。
それが保守的な考えかたなのかはさておき、最期まで自分らしく生きるために、自分らしい死にかたを自分で選ぶという選択は、マリの中でじゅうぶんに理解しうることであった。ましてや彼の性格や生き方を思えば、若い看護師さんにオムツを替えてもらうのがどれだけ苦痛なことかも、痛いほどわかった。一方で、自死というのはある時点で生きることを諦めるということでもある。できなくなる自分を受け入れ、他人の力を借りることを受け入れながらも、最期まで諦めずに生ききることまでが魂のミッションのようにも感じられる。
彼は、もし再発したときには自殺も考慮に入れていることをマリに仄めかしたわけだが、マリはそれになんと答えればよいのかわからなかった。
「今はまだ大丈夫だけど、そのうちに何日も続いて熱が出始めたら、私は壊れてく。」
彼の語気は強く、血走った目はマリではなく遠くに向けられていた。マリは彼のことを見守った。
「白血病は、最期には呼吸困難で死ぬ。」
マリはその言葉に、「苦しみながら死んでいったSさん」というフレーズがふと重なり、耳を塞いだ。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。