【知られざるアーティストの記憶】第71話 彼の部屋で留守を守る日々
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第10章 5度目の入院
第71話 彼の部屋で留守を守る日々
彼と病院に向かった入院当日の朝はとても暖かく、嘘みたいに明るい青空が広がっていた。
「こういう暖かい日が続いたあとには、雪が降ったりするよ。」
と助手席の彼がつぶやいたとき、マリはあまり真に受けなかった。しかし、翌日はその冬一番の寒さとなり、朝から昼にかけて霰が降る、暗い一日だった。
マリは彼の家の二階の雨戸を開け、彼の布団の周りで気功をした。
「あなたと一つになりたいです。」
と願ってから彼の布団に横たわって瞑想すると、ビリビリとしたエネルギーが布団から背中に伝わってくるのを感じた。それは、マリの体を重くするようなエネルギーだった。
マリはその日、裁縫道具を持参し、彼の布団の上で縫い物をした。彼が望む通り、家でなくてもできる作業は彼の家でしてみようと思ったのだ。先日のImakokoカフェでのワークショップで、りーさんがもう1つ分の糠袋の中身をお土産にくれたので、三男を産んだときに腹帯にしていたベンガラ染めのさらしでマリは自分用の糠袋を縫い始めた。
疲れると、彼の糠袋をレンジで温めてお腹に乗せ、彼の布団に横になった。やはり、ビリビリ、ぐあんぐあんという波動を背中から受け、ちっとも眠ることができなかった。彼が見つめていたであろう天井を見つめながら、マリは何度も「許します」を唱えた。帰りに、彼の冷蔵庫からバナナとリーフレタスを救出した。
今回の入院にはマリが付き添ったため、従兄のノリオさんは来なかった。彼は入院受付で自ら入院申込の用紙を記入し、マリは隣で見守った。緊急連絡先の欄の一人目にはノリオさんの名前を書いた。受付の女性は、できれば二人の名前を書くよう求めたが、
「誰もいません。」
と彼は二人目の欄にマリの名前を書かなかった。
「私を書いてくれていいのに。」
という言葉がマリの口から出かかった。病院側としてもそのほうが便利ではないかとすら思った。しかし、マリの名前を書かないことは彼の気遣いであるように感じたので、マリはその言葉を飲み込んだ。彼の緊急時に連絡をもらえるのは、家族と親戚のみなのであった。
また、マリにとっての沈黙の時間が訪れた。しかしそれは、これまでの完全に空虚な4週間とは心持ちがまるで違っていた。マリはいつでも彼に会いに行くことができる切符を手に入れた。ほんとうはすぐにでも毎日でも行きたかったけれど、マリは彼の洗い替えの服を持って彼を訪ねる最初の日を、入院から10日後の彼の誕生日、12月23日に決めた。
加えて、今回は、彼はマリのスマホの番号メモを持っていった。何か必要ができれば電話をかけるという言葉はマリに、何度も着信履歴を確認させた。公衆電話からかけてくれる彼の着信を見逃してはいないか。しかし彼は、ただ声が聞きたいなどの理由で電話をかけてくることはなく、結局今回の入院では一度もマリのスマホを鳴らさなかった。
マリは毎朝毎夕、彼の家の雨戸を開け閉めした。部屋に声をかけ、彼の布団の周りで気功をし、彼の布団で瞑想をした。彼に会いに行ける日までのカウントダウンは、持って行く荷物やプレゼントの準備を少しずつ進め、フライングで行きたくなる待ち遠しさと、準備が間に合わぬと慌てる気持ちとが入り交じっていた。
突風の吹いた翌日には、道路に落ちた槐のさやと葉っぱを片づけた。隣家のおじいちゃんに事情を聞かれたので、彼が入院した経緯を簡単に伝えた。かつて、彼の1クール目の入院中に彼のことを尋ねたおじいちゃんであった。立場が逆になったことを感じた。
「親戚のかた?」
と訊かれてマリは、
「あ、はい……。」
と咄嗟に答えた。
「そんなの私がやってあげるから、あまり無理しちゃだめだよ。」
それは、おじいちゃんの口を借りて彼が言っているような気がして、マリは耳を傾けた。
(わかった。この袋がいっぱいになるまでね。)
「大変ですねえ。今日はいつものおじちゃんじゃないんだね。」
犬の散歩をするおばあちゃんに声をかけられた。
「いつものおじちゃん」とは、マサちゃんだろうか。それとも、彼のことなのか。マリにとっては、「おじちゃん」という言葉があまりにも彼に似つかわしくなかった。マリがいっぱいにしたオレンジ色のボランティア袋は、槐の木の下で西日を浴びて、彼みたいな顔をしていた。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
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