ほうき星の降る夜
一、パウロの再生カプセル
白髪混じりの男がひとり、真っ暗な宇宙空間に浮かんでいました。
透明な球体カプセルの中に入ったその男は、無重力に身を任せ、四肢を投げ出し目を閉じています。
しかし眠っているのではありません。
音楽を聞いているのです。
透明カプセルの中は心地良い音楽で満たされており、男はまるで水中にたゆたう海藻のように、身体を緩め全身の器官を解放し、音楽を味わっているのでした。
(…やはり宇宙空間で聞くバッハは至高…バッハと宇宙との親和性の高さ…真理を突き刺すような旋律の数々…この音楽は宇宙そのものだ……宇宙に存在する音楽を、バッハは楽譜に起こしたんだ…)
…やがて音が小さくなり、遠くへ消えてゆきます。
(…次に聞こえてくるのは…森の木々の葉ずれの音…)
サワサワ…サワサワサワ…
瑞々しく弾けんばかりの新緑と、柔らかく頬に当たる暖かい木漏れ日。
男はゆったりと深い呼吸をします。
(そしてここへ…ショパンがフェードインしてくる…ショパン…!宇宙に物語と会話を与えるショパン…宇宙が持つ豊かな感情…素直な喜怒哀楽…愛おしい生命の営み…)
男の唇が自然に緩みます。
(身体を通り抜けてゆく宇宙の音楽…音楽の宇宙…俺の細胞は次々に音楽へと置き換わる…そして宇宙空間の静寂と音楽の中にある静寂…二種類の静寂…
…ショパンが去るとここからは胎内音…鐘のような響き…唯一無二の音楽……ここへ重なってくるのは……)
トー……ン
(ベートーベン…音のない世界から生まれた音楽…この和音は何かを掴もうとしている…もう少しで手が届きそうな願いを含んだ音…自分だけの音楽…音楽である自分…俺は音楽になる…そして…遠くから何かが…いや…誰かがやって来る…)
そして運命は扉を叩く…
… …ゴンゴン!ゴンゴンゴン!
乱暴にカプセルを叩く衝撃に、パウロは目を開けると同時に片手をさっと横に振りました。
すると目の前に、驚いた顔をして宇宙空間に浮かんでいるダイチがいたのです。
「パウロ!え?何これ?!何してんの?すごいな!何これ?!」
「…ダイチ?なんだなぜここが分かった?このカプセルは環境適応のカモフラージュ型だから、マジックミラーの様に外側からは内側が見えないはず、外からはただの岩石に見えたはずだが」
「うん、全然分からなかった。見た目はただの石だった!でもスイーパー※にパウロの居場所を訊いたら、ここに連れて来られて、この岩石だって言うからさ、何言ってんだろと思ったけど試しに叩いてみたんだよ。これ何?パウロ。何してたの?」
ダイチはカプセルの中へ入ってみたそうに興味津々で覗き込みました。
「新技術の実験中だ。お前には関係ない」
パウロはそう言うとあからさまに嫌そうな顔をして、ひらっと片手を振りました。
すると、透明なカプセルの外側は一瞬にしてゴツゴツした岩石に変わりました。
ダイチは慌てて言いました。
「あっ待って待ってパウロ、違うんだ、助けて欲しいんだよ!なんか変なのにまとわりつかれててさ。困ってるんだ」
岩石がぱっと透明のカプセルになって、パウロが怪訝な様子で言いました。
「何だって?」
「ほらこれ!こいつ!あれ?どこ行った?」
ダイチが背中の方を探すと、肩の後ろから小さな生き物がひょこっと顔を出しました。
その姿の奇妙な事といったら、まるで手のひらサイズのほうきの柄を切り取って、先っぽだけになったところに、大きな目を真ん中にひとつくっ付けたといった風体、小さな身体の半分くらいを占める大きな目は、辺りをキョロキョロ見渡し、全身を覆う羽根のようなものは時折ひらひら動きます。
そのひとつ目ほうきの不思議な生き物は、ぱちくりと瞬きをすると、大きな目を全開に見開いて、パウロの事をじっ…と見つめているのでした。
※スイーパー
ダイチがいつも背中に背負っている、パウロが作った銀色の棒。ダイチの仕事道具。宇宙空間の塵を吸い取る他、データ分析・保存機能や通信機能も持ちまた移動手段にもなる。
二、星間喫茶〈プレリュード〉
三人は近隣星の喫茶店へやってきました。
パウロがカップをソーサーにカチャリと置いて言いました。
「さて。一体どういう了見で、その様にダイチにくっついたまま離れないのか、話してくださいますか」
「その前にこいつ、話せるのかな?」
ダイチは右こめかみの翻訳チップを指でスクロールしました。
「話せるとしたら言語タイプは音か光か、それとも物質放出…」
『骨伝導です』
「うわああああ!」
「いててててて!」
突然、ダイチとパウロの全身に電気が走るような痛みが起こりました。
『私共の言葉は相手の骨や関節を振動させる事で知覚へ直接こちらの意思を伝える話し方でして、これは言語タイプと致しましては音とはまた別の』
「わかった!わかったからもう少し小さく喋ってお願い!」
びりびりと体中を襲う激痛に、変な格好で悶えながらダイチは懇願しました。
『す、すみません!このくらいでどうでしょう』
「うん、そのくらいでお願い…ああびっくりした…ええと、そしたらまず…君、名前はあるの?」
『はい。ですが私の名前はおふたりには発音出来ないと思いますので…
三、ザウエルの願い
『私の事は便宜上ザウエルと呼んでください』
「ではザウエルさん。一体何故こんな事を?」
『はい。先程宇宙ステーションのラウンジでたまたまそちらの方…ダイチさんとすれ違いまして。パウロさんの事を話されているのが聞こえてきました。話の内容からするとあのパウロさんらしい、これは願ってもないチャンスだと思いました。私は学会と打ち合わせを終えて自星へ帰るところでしたが、急遽宇宙船をキャンセルして、パウロさんにお会いしたい一心で、その銀色の棒にしがみついて来たのです』
「それじゃ、ダイチじゃなくて私に用があるのですか?」
『はい。パウロさんに是非お話ししたい事があるのです』
「一体何でしょう」
『はい実は…私達の星の事なのです。私達の住む惑星は楕円の軌道で恒星を周っているのですが、我々の星ともうひとつ、まったく同じ条件を持つ惑星が恒星の反対側に存在していまして、このふたつの星は恒星を巡る周期も一緒、そしてその位置関係から数年毎に交代で恒星に近づく形で公転しています。片方が最も恒星へ近づく時、片方は最も恒星から離れるといった具合です。そして星が恒星に近づくと、星の表面が高温になり星に留まる事が出来なくなるので、我々は渡り鳥のように一斉に宇宙へと飛び立ち、もうひとつの惑星の方へ移動するというのを繰り返して生活しています』
「かなり特殊な環境ですね」
『そこまではよいのですが…宇宙を渡って降り立つもうひとつの星には、クチという生物がいます。彼等は身体のほとんどの体積を唇が占めています。そして、クチ達にとっては我々が唯一の食べ物なのです。その他のものは一切食べません。ですからクチ達にとっては、我々は待ちに待った待望の食料という訳です。我々が宇宙を飛んで来ますと、無数のクチがお腹を空かせた雛鳥の様に地上一面に唇を開けて待ち構えています。クチ達は我々がやって来ると力の限り叫びますから、その大声にやられ、また気力体力が尽きた者から、地面に落ちてクチに食われます。すべてのクチが腹一杯になるまでクチ達の食事は終わりません。そうやって毎回、我々の半数近くがクチに食われます』
「毎回半数も…」ダイチが呟きました。
『ところが最近、我が星では我々の代わりに我々の代替品を作って、それをクチに食べさせようという気運が高まってきているのです。そしてその設備開発に、パウロさん達が持つ技術が大変役に立つのです』
「なるほど。ではつまり、その技術面で私に協力して欲しいという訳ですか」
パウロが尋ねると、ザウエルは言いました。
『いいえ。その逆ですパウロさん。もしも私の星の者達がやって来て、その様な依頼をされたら、どうか断って頂きたいのです』
四、運命はどの扉を叩く
パウロとダイチは顔を見合わせました。
「…どういう事でしょう?」
『我々の代替品を作る計画ですが…私はこの計画に疑問を感じているのです。クチは我々のような知能を持たず、会話は成立しません。我々から見ればクチは半分植物のような感じです。しかしクチは我々と違って過酷な星の環境に耐えられる力を持っているのです。恒星接近による灼熱地獄から大地を守り、生態系の均衡を保ち、再び我々が星にやってくるまで食物連鎖の要となり、星を維持してくれます。そういった様々な事を含めて充分な検証をしないまま、ただ感情に任せて見切り発車をしてしまうのは危険だと思うのです。しかし…』
ザウエルの大きな目にみるみる涙が溢れてきました。
『家族が、恋人が、友人が、目の前でむしゃむしゃ食われていくのをただ見ている事しか出来ない辛さは言葉に出来ません。大切な人をクチに食われた我々は、宙を飛びながら大粒の涙を流します。その涙は大量で、涙のせいで我々の姿が見えなくなる程です』
パウロが何か気が付いたように言いました。
「β727フォレスト銀河のダイヤモンドダスト…」
「パウロなにそれ?」
「光り輝く宝石を宙一面にばら撒いたように見える宇宙現象だ」
『一部ではそのように呼ばれているようです』
「あの宇宙現象は発生原因が謎で、おそらく恒星から発せられる何らかの物質が光っているように見えるのではないかと言われていた。だがあれは、お前さん達の涙だったのか…」
その現象が起こる様子は凄まじいものでした。
真っ暗な宇宙空間にダイヤのごとく光り輝く無数の粒粒が、キラキラキラキラとめどなく次から次へと溢れ出ては、深く冷たい闇をまばゆく明らめ、互いに反射しつつ輝きを止めない光達は、まるで鎮魂の柳花火のように、いつまでもどこまでも長く銀色の尾を引きながら、果てなく遠い宇宙の彼方へと溶けてゆくのでした。
『我々はなぜこのような苦しみを背負って生きなければならないのか、なぜこんな残酷な仕様の生物なのか分かりません。クチに食われずに済む方法は無いものかとどれほど思い悩んだかしれません。しかし、クチに代替品を食べさせる案には私はどうしても疑問を感じます。保守的だとお思いになるかも知れませんが、宇宙の意思やサイクルを知れば知るほど、生物の在り方に関しては謙虚にならざるを得ません。私共の不幸は発達し過ぎた知性にあります。もしも我々がクチと同じくらいの知性であったなら、もしもこれ程までに進化しなかったら、何の疑問も抱くことはないでしょう。しかし我々とクチは共存関係にあり、いわば一心同体です。我々の死はクチ達の生です。そして逆もまた然りです。万が一需要と供給のバランスが崩れれば、我々もクチも滅亡の危機に晒されるかもしれないのです。かと言って解決策の妙案は今のところありません。私はこれからも運命と向き合っていきます。このお願いは私の個人的なものでして、なんの強制力もございません。今日はこうして偶然パウロさんに出会え、私の思いをお伝えする事が出来て良かったと思います。パウロさん。ダイチさん。私の話を聞いてくださってありがとう』
そう言うとザウエルは、大きなひとつ目を細めて微笑みました。
五、旅立ちの時
宇宙ステーションの展望デッキからザウエルの乗った宇宙船を見送りながら、ダイチはパウロに尋ねました。
「なあパウロ。もしザウエルの星の人達がやって来て、協力を依頼されたらさ、断るのか?」
「わからないな。正直その時になってみないと。それに、これから自分なりにザウエル達の環境を調べて何らかの活路を見出すかもしれないし、あるいは何もしないかもしれない。宇宙は方向性を持ちながら常に変化していて、俺達はいつもその過程にいるんだ。だから選択に正解も不正解も無く、自分なりに考えて行動した結果だけがあるんだ」
ダイチはパウロがいつも言う中庸を思い出しました。
「だがザウエルのあの目…あの目は何かの真髄を見通すような深い眼差しだ。あんな目を俺は見た事がないよ」
ダイチはパウロの横顔を眺め、そしてその視線の先にある宇宙を臨みました。
そこには追っても追いきれない深淵がありました。
そしてこの時、パウロの身に起こっていたわずかな変化に、ダイチは気が付いてはいなかったのです。