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ロバートゼメキス論

まずはじめに、あなたがもしロバート・ゼメキスをハリウッドの娯楽映画、それもエンターテインメント作品を撮っている監督だという認識ならば、それは完全に間違っている。なぜならば、ロバート・ゼメキスは、極めて政治的な作家だからだ。スピルバーグやクリスコロンバスとは違い、ゴリゴリの保守思想で、かつ、共和党的な部分を反映させた監督だ。本論考では、ロバート・ゼメキスの映画を年代順に振り返り、大きく分けて三つの時代に区分し、ロバート・ゼメキスの映画の変遷を辿って行く。

前期 1978〜1984

ロバート・ゼメキスは、南カリフォルニア大学を73年に卒業すると、それから5年後の78年に『抱きしめたい』でデビューを果たす。85年の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に至るまで、『ユーズド・カー』(80)『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』(84)を含む3本の映画を撮っている。なお、ここまでを前期と区分することにする。この時期のロバート・ゼメキスは、所謂、「冴えないB級映画を撮っている監督」であり、ある特定の方向性を示した映画を撮っているわけではないが、『ユーズド・カー』は、ロバート・ゼメキスの政治的思想が描かれた初期の作品だとみることができる。映画の内容は、将来、政治家になる夢を持った青年が補欠選挙に立候補するため、中古自動車販売店で働き資金を集めるというものなのだが、金を稼ぐためなら、なんでもやるといったスタンスで、アメフトの試合中継の電波を違法に乗っとり、裸の女を車の前に立たせて、パーティーメガネをかけて面白おかしく宣伝したり、向かいにある、店主の兄弟の中古車販売店に並ぶ車を次々とぶっ壊していったりと、なんともやり口が下品だ。なによりも酷いのは、主人公の青年が店の土地を守ることを口実に、死んだ店主を敷地に埋葬して残りの従業員で店を運営し、勝手に金を稼いでいることだ。最終的に青年は店主の娘に恋をしてライバルの店主の兄弟から不当に訴訟を起こされた娘を救うのだが、裁判所の傍聴席から堂々と嘘を吐かせるよう娘に合図を送り、バイトを雇い、車を何百台も集めて訴訟に勝つといった結末で、行き過ぎた資本主義の醜さが映画を通して露呈する。モラルや倫理感は欠如し、「ズルをしてでも最終的に勝ったやつが勝ち」的な世界観に終始する。前期のロバート・ゼメキスには、こういったネオリベ的価値観が根底にはあったといえるだろう。

中期① 1985〜1994 (宗教保守期) 
未来は変えられるが信仰は大事 
アメリカ合衆国の礎となったカルヴァンの予定説と資本主義

85年に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で一躍、大衆の人気を獲得すると、『世にも不思議なアメージング・ストーリー』(86)『ロジャー・ラビット』(88)『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』(89)『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』(90)『永遠に美しく…』(92)『フォレスト・ガンプ 一期一会』(94)
と精力的に映画を撮り続ける。この時期から、ロバート・ゼメキスの政治的性質が強く顕れていくようになる。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は言うまでもなく、ロバート・ゼメキスの代表作で、日本でもお茶の間の人気は抜群だ。自分や自分のルーツである家族について、それに加え未来や過去へのタイムトラベル、誰もが興味を惹かれる内容だが、映画批評家の町山智浩氏が指摘しているように、それは単なる家族の物語に収まらず、80年代から見た、「古き良きアメリカ」への郷愁が描かれている。そして94年の『フォレスト・ガンプ 一期一会』にも引き継がれかれている。こちらは、歴史修正主義的な側面も加わり、勝つためには手段を選ばない、ネオリベ的な『ユーズド・カー』から一変し、ロバート・ゼメキスの愛国主義的な政治性を見ることができる。そして、この時期(中期)で重要なことは、ここから2012年の『フライト』まで、引き継がれる事になる「信仰」についてのテーマが登場するという点だ。中期、ロバート・ゼメキスのもっとも根幹的なテーマである、「信仰」の問題は、2012年の『フライト』まで、形を変えながら、頻繁に登場するメインテーマになっている。トムハンクス主演の『フォレスト・ガンプ 一期一会』では、知能指数が低く、足にハンデキャップを負った、フォレストガンプが困難を乗り越え、アメリカの歴史に深く関ることで、そこに暮らす人々を感化させていくドラマ仕立てになっているのだが、その根本にあるのは未来と信仰についての問題だ。ガンプは、アメフトで推薦を受けたアラバマ大学を卒業すると、ダン中尉の部隊に召集されベトナムに向かう。戦闘中に仲間が次々と負傷し、一度、撤退したものの再び助けに戻る。ガンプは病院でダン中尉の隣のベッドで過ごしていると、夜中に突然中尉から胸ぐらを掴まれ、「自分はあの時に死ぬ運命だった」と告げられる。これは、カルヴァンの予定説に基づく決定論的な信仰を顕したものだ。ガンプは「人生は箱に詰められたチョコレートだ」と母から聞かされた言葉を信じていおり、このカルヴァンの予定説に基づく信仰と「人生は自分次第で切り開いていける」という、資本主義的な考えは対立する。しかし、ガンプは終盤で、「ぼくは両方だと思う」と信仰の大切さと資本主義的精神の両立を訴えているのだ。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で描かれている、「未来は自分で変えることができる」といったメッセージの裏側には、ドクの言う「未来を勝手に変えてはいけない」といった、カルヴァンの予定説に基づく、アメリカを創り上げた宗教的心情がアンビバレントに共存しているのだ。

中期②1997〜2012 (宗教保守期) 
科学万能主義批判、合理主義批判、資本主義批判、そして何よりも信仰心を持て!
映画監督から宗教の伝道師へと激変!

80年代半ばから、90年代半ばまでの役10年間、精力的に作品を創り続けて来た、ロバート・ゼメキスは、一気にそのスピードを緩める。『コンタクト』が公開されたのは、『フォレスト・ガンプ』から、3年後の97年だ。それから、『ホワット・ライズ・ビニース』(00)『キャスト・アウェイ』(00)と立て続けに撮り、『ポーラー・エクスプレス』(04)『ベオウルフ/呪われし勇者』(07)
『Disney's クリスマス・キャロル』(09)『フライト』(12)とコンスタントに作品を発表する。この頃のロバート・ゼメキスは、もはや映画監督というよりも、宗教の伝道師といった方が適切かも知れない。なんせ『コンタクト』から『フライト』まで、全てが信仰をテーマにした作品なのだから。80年公開の新自由主義的な『ユーズド・カー』から始まり、85年からシリーズ化した『バック・トゥ・ザ・フューチャー』さらには94年の『フォレス・ガンプ』でアメリカの宗教と資本主義の齟齬を描き、「未来は自分しだいで切り開けるけど、宗教も大事だよ」とやんわり言っていたのが、97年の『コンタクト』から宗教色は激的に強まり、「とにかく信仰心を持て!」と半ば強制的なメッセージを送り続けるまでに変化する。
変わったのは信仰心の強さだけではない。強烈な科学万能主義批判から始まり、その矛先は、資本主義批判、合理主義批判へと向けられる。97年公開の『コンタクト』は、もっとも明確なメッセージが向けられた作品と言えるだろう。地球外生命を探索するSETIプロジェクトの研究員、エリーは宇宙船の中で神秘的体験をするのだが、観測していた周りの人間は何も起こっていないことをエリーに告げる。しかし、宗教家でエリーの恋人パーマーは、「信じるよ」と彼女に寄り添うのだ。それから3年後に公開された、幽霊が見える女性主婦が主人公のホラー映画『ホワット・ライズ・ビニース』は、もっと奇妙だ。主婦のクレアは夫に自宅で女性の幽霊を見たと話す。すると医者に連れて行かれる。それでも諦めず、友人を招きウィジャ盤で霊を呼ぶが、やっぱり笑われてしまう。たがクレアは幽霊が居るのを信じて疑わないのだ。幽霊を信じることは、キリスト教を信仰することとはなんの関係もない。じゃあなぜそんな映画をつくったのか。科学が進歩するにつれ、人間の信仰心は薄くなって行くばかりだ。ならば、「信仰する対象は神じゃなくてもいいんじゃね?まずは、人に何を言われても信じれる何かを見つけるようにさせれば、何も信仰しないよりはマシでしょ」その結果「なんでもいいから信仰できる対象を見つけろ!」となった訳だ。しかし、筆写はこれはあまりにも危険過ぎるのではないかと思う。個々の人間がなんでもかんでも好き勝手に、自分の信じたいものを信じていたら世界はどうなるだろうか?言うまでもないが、2021年にアメリカ議事堂が陰謀論を信じるQアノンや、トランプの「選挙は盗まれた」と言う言葉を信じた、極右団体、プラウドボーイズなどによって破壊された。ある局面では、信仰心は人を救うが、それが全く逆のベクトルに向かうと取り返しのつかない事態が起こってしまうことがあるのも事実だ。同じく2000年に公開された、『キャスト・アウェイ』は、合理主義に侵されたビジネスマンが飛行機事故によって無人島に流される話だ。ここでは、呪(まじない)いという形によって神の姿が描かれている。古代の人類がそうしてきたように、男は自分の血液でバレーボールに顔を描き、寝ぐらの洞窟に壁画を描くのだ。『ポーラー・エクスプレス』はクリスマスイブに、サンタ(キリスト)の存在を信じることに揺らいでいる少年の家の前に、鉄道がやって来て、サンタの住む街へ向けて出発するという内容のアニメーション映画だ。2007年公開の『ベオウルフ/呪われし勇者』は、不貞を犯した王たちが、息子の魔物に復讐され殺されるという話になっている。2012年公開の『フライト』は、アルコール依存症の黒人パイロットが、メンテナンスの不備によって制御不能になった機体を胴体着陸させ、乗客、乗員を含め6名を死亡させた罪で起訴される。男は自己保身のため、虚偽の内容を法廷で発言する予定でいたのだが、罪悪感から神の力を借りて真実を述べる……… といった具合に、97年から2012年までの15年間、宗教一筋だったロバート・ゼメキスも、さすがに飽きてしまったのか、布教完了とみたのか、これ以降は宗教をテーマにした映画を撮らなくなる。

後期 2015〜(大衆映画期)
信仰的メッセージは途絶え、批判精神も消え、描かれるテーマもバラバラになるが、大衆性は増し、より観やすくなる。

ある意味で、観る人を選ぶ映画をつくってきたロバート・ゼメキスだが、晩年に入り、信仰的表現や、批判精神が消え、真の意味での大衆作家になったと言える。今はなきワールドトレードセンターを綱渡りした大道芸人、フィリップ・プティの伝記、『マン・オン・ワイヤー』を映画化した、『ザ・ウォーク』(15)から始まり、妻がナチスのスパイだと知った工作員の夫に訪れる悲劇を描いた、『マリアンヌ』(16)女装が趣味の写真家がバーでネオナチ思想の男たちに襲われ、記憶を喪失し、マーウェンという架空の街を舞台に人形劇の世界に没入する、実話を元にした『マーウェン』(18)その他にも、『魔女がいっぱい』(20)『ピノキオ』(22)『ヒア』(24)など、晩年もアニメ、実写を問わず、様々なジャンルに挑んでおり、還暦を迎えてからも、休むことなく、コンスタントに作品をつくり続けている。

総括

さて、これまで長々と、前期、中期①、中期②、後期とロバート・ゼメキスの映画人生を振り返って来た。もう一度これまでの内容を整理すると、前期では、80年公開の『ユーズド・カー』で「何をしようが最終的に勝ったやつが勝ち」的な、新自由主義的世界観からスタートし、中期①では、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85)や『フォレスト・ガンプ 一期一会』(94)で、「未来は変えられるが信仰は大事」といった中立的な立場を取っていたものの、中期②に入り、宗教色がより強くなり、科学万能主義批判、合理主義批判、資本主義批判、など批判的な映画を制作し、後期に入ると、それらの要素が全て綺麗に抜け落ち、真の大衆作家になったというわけだ。面白いのは、スピルバーグがこの手の映画を撮っても全く宗教っぽくならないところだ。三人の監督による、オムニバスドラマ、『世にも不思議なアメージング・ストーリー』(86)では、ロバート・ゼメキス、ウィリアム・ディアのほかに、スピルバーグが参加しており、『最後のミッション』という、第二次世界大戦中の陸軍航空軍の任務遂行後の奇跡の帰還を描いた、45分ほどの『メンフィスベル』的なドラマ作品があるのだが、開かない車輪を、開け、開けと願う事によって、不思議な奇跡が起こるという内容は、信仰によって願いを叶える(命が助かる)という、撮り方によってはすごく宗教的なものになってもおかしくないのだが、(ロバート・ゼメキスが撮れば絶対そうなっていた)スピルバーグには、それを全く感じさせないのだ。「信仰心」ではなく、「夢を見る力」を感じさせるファンタジー映画へと仕上げられているのだ。


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