わたしのインナーチャイルド。そして野原の話。
トップの画像は河津桜。
静岡にお住いのクリエイターakihiroさんのお写真なのですが、なんだかすこーし不思議な感じがしませんか?
これ、水たまりを撮影したものなのですって!
水たまりに映った河津桜、そして空。
上のほうにぼやっとピンクにみえるのは、水たまりに浮かんだ桜の花びらなのだそう。
ふと水たまりをのぞきこんだときにこんな世界がみえたら……それだけで、心はどこかに飛んでいきそうです。こんな世界をみせてくださるakihiroさんに、心から感謝です。
ところで最近、親しくしているクリエイターさんから、体調を崩されたと伺う機会が続いています。しばらくnoteをお休みされる方もいらして、さみしい限り。でももちろん、それぞれ無理のないように関わるのが大切です。だから、氣にしてはかえって申し訳ない、と思うようにしていたのですが……この水たまりの写真をみて、はっと、目が開いたような氣持ちになりました。
(もしかして、この状況は、わたしの心を映してる?)
みなさんのご事情や体調不良を、勝手に自分と重ねるのはどうかとも思いますが、最近の自分のnote生活を振り返ると、どうしてもそんな氣がしてしまうのです。
いつ頃からだったか……わたしの記事は、みなさんの投稿や、コメント欄での何氣ないやりとりに、大きく影響を受けるようになりました。
なんというのでしょう。その時期だけ、静かだった水面が突然盛りあがるように、ある一定のテーマが、多くの投稿やコメント欄に急浮上してくるのです。シンプルに、シンクロといいかえたほうが、みなさんには伝わりやすいかもしれませんね。
直前までそんなテーマで書くことは思いもよらなかった、という記事がたくさんあります。というか、最近はそれしかありません。
だとしたら……もし、これがシンクロなのだとしたら、わたし、少し疲れてる?
鏡のように桜を映した水たまりの写真を眺めて……そうかもしれないなあ、と、わたしは素直に思いました。
あ、先に申し上げておくと、決してご心配をかけるようなものではありません。
それまでの日常に、noteという世界が加わって、わたしの毎日は信じられないほど豊かになりました。
いままで形にしてこなかった自分の思いを、こんなふうにみなさんに読んでいただけるなんて、わずか3か月前は想像もできませんでしたし、みなさんの記事には泣いたり笑ったり、新鮮な感動をもらっています。毎日本当に楽しいのです。
でも、だからこそ、なのかもしれません。
見落とされがちなことですが、辛いことだけではなくて、楽しいことも、実はストレスの要因になるのです。
ストレスとは、外部からの刺激に対して生じる、心身の緊張状態。それが楽しいことであっても、刺激が強かったり、変化が大きかったりすると、心身は思いがけず疲弊します。つまり、楽しすぎる、ということですね。
もしかして、わたし、楽しすぎて疲れてる……?
うーん、ありえる。と思いました。
そういえばこのところ、がつんという元氣がでません。
ストレスって、それに氣がついてあげただけで、実は、もう半分解消されたようなものなのです。ですから、氣づけたことに感謝して、それを素直に記事に書いてみたいと思いました。
さて、どんな記事を書いてほしい?と自分の心に問いかけたら、「瞑想!」と即答で返ってきました。
瞑想の記事?瞑想を記事に?
「あなた」がそういうなら……まあやってみましょう。
普段自分が習慣にしている瞑想を、皆さんに共有させてもらう。たまにはそんな記事もいいかもしれません。
お話させてもらうのは、あくまでわたしの瞑想法です。
いくつかのお氣にいりの瞑想のパターンがありますが、そのうちのひとつ、「心に遊びにいく瞑想」のとき、わたしに起こることについて、そのままを……お話させてもらえたらと思います。
温かい季節には、裸足で庭に降りて。いまの季節はまだ、部屋で結跏趺坐を組んで、わたしはいつも瞑想を始めます。
心に焦点をあてるときには、心臓の真裏あたりに感じられる、心の領域とも呼べる場所に意識を持っていきます。すると、あっというまに反応があります。他の瞑想に比べても、「心」の反応は特に早いのです。
どうしてかというと、そこにいるのは、かわいい子どもたちだからです。
わたしが「心」に意識を向けた途端、待ち構えたように現れて、わたしに抱きついてきたり、膝の上にちょこんとお座りしたりします。
現れるのは、男の子と女の子。インナーチャイルドと呼ばれることもある存在です。
わたしは、とにもかくにも、ふたりを両手で抱えるように抱きしめて、おはよう、と伝えます。ふたりはくすぐったそうに笑います。
男の子と女の子、ふたりの子どもの姿をしているのですが、この子たちは、ふたりでひとつの存在らしいとわたしにはわかります。わたしのなかの男性性と女性性とを表しているのかもしれません。
「ふたりでひとり」のこの子たちにはかわいい名前もあるのですが、それを公表する許可は得ていないので、子どもたち、と呼ばせていただきますね。
心の領域に広がるのは、花と緑のあふれる野原です。見渡す限りどこまでも続きます。風のおいしい野原です。
わたしは子どもたちに手を引かれて、草の上を歩いたり、おいかけっこをして走りまわったりします。
わたしが走ったり歩いたりすると、小さなバッタが足元を跳びます。透明なバッタです。
「水晶のバッタさん」と、わたしは呼んでいます。跳ぶときに、シャリン……と、小さな音を響かせます。
わたしたちが走りまわる間中、野原には、その澄んだ音色が響きます。
シャリン……シャリン……シャリ、シャリン……。
走りつかれると、わたしたちはその音に身をまかせるように、野原に仰向けに倒れます。背中がひんやりします。目の前には青い青い空が広がり、おなかは日差しにぽかぽかと温められます。
ふいに、にゃ……と、やわらかな声が近づいてきます。
猫です。草色の猫。まるで小さな野原みたいな……「野原猫」。
寝ころんだまま、わたしが、おいで、と手をのばすと、野原猫は寄ってきて、わたしの脇のあたりでまるくなります。
いいにおいがします。草のにおい。やわらかい土のにおい。
野原猫は、「コンパクトな野原」みたいな猫です。緑の毛は脚の長い草そのもので、なでると少しひんやりします。でも体温はちゃんと高くて、一緒に寝ていると温かさが伝わります。あったかい、と、ひんやり。両方のにおいがします。安心するにおいです。
子どもたちのうち、女の子が起きあがり、野原猫を膝に抱きあげます。
野原猫は、女の子の膝の上で、ごろごろ喉を鳴らします。
そんな女の子と野原猫を横から眺めて、わたしの心は温かいものに満たされます──。
わたしが、わたしのインナーチャイルドに初めて出会ったのは、もう、ずいぶん前のことです。
その頃わたしは心身ともにぼろぼろで、インナーチャイルドは、どこともわからない薄暗い場所で、小さくなって膝を抱え、ただひとりで泣いていました。いまは「ふたりでひとり」の子どもたちですが、初めて会ったときには、ぼさぼさっとしたおかっぱ髪の、ひとりの子どもでした。
なぜ子どもが現れたのか、その子どもが何なのか、当時のわたしは見当もつかないままに、ただその子を背中から抱きしめていました。そして、なぜだかわからないままに、「ごめんね」と伝えました。そうしなくてはいられなかったからです。
それだけの、一瞬の幻のような出来事でしたが、氣がつけば、わたしはぼろぼろと泣いていました。そうして、それはわたしの忘れえない強い記憶となりました。
それから何年もたって……瞑想を習慣にしたときに、わたしは、健康的なふたりの子どもの姿になった、わたしのインナーチャイルドと再会を果たしました。膝を抱えて泣いていた子どもの面影はなく、幸せそうに笑って、豊かな野原という居場所を、わたしのために用意さえしてくれていました。
わたしはその子たちを抱きしめ、抱きしめられながら、野原でゆっくりと呼吸をし、必要なものを自分自身に満たすことができるようになりました。
もう、二度と、この子たちを忘れて過ごすことはありません。
心は自分の所有物ではなく、ともに生きてくれるパートナーなのだと知りました。
自分のものだと勘違いして、邪険に扱ったり、無理をさせたりしていいものではありませんでした。
そんなあたりまえのことに、ずいぶん遅くなったけれど、わたしはようやく氣がつきました。
だから、元氣がない自分に気づいたら、わたしは野原に遊びにいきます。
(遊ぼう、遊ぼう)
わたしを誘う子どもたちの声が、きこえるような氣がするからです。
さて、この記事の下書きがおおよそ書きあがるかと思う頃……「退院しました」とか、「体調を崩していましたが元氣になりました」とかいうメッセージが、コメントで届きだしました。
シンクロ。すごいなあ。
胸の野原で、ざざあっと……風が笑ったみたいです。
トップの河津桜の写真。akihiroさんの元記事はこちらです。↓↓↓
こちらの記事に、コングラボードが届きました。スキをくださったみなさま、記事にご協力くださったみなさま、本当にありがとうございました。