書いていく。つないでいく。「観音さまがやってきた」
先日、わたしのところに観音さまがやってきました。
そして、その翌朝に、こちらの素敵な記事を読みました。
あやのんさんの、「観音さまがやってきた( ゚Д゚)✧♡」。
あやのんさんのところに、観音さまがやっていらしたそうです!
詳しくは、あやのんさんの記事をお読みいただけたらと思いますが、パソコンのデスクトップの背景に、突如こちらの観音様が現れたのだそう。
もちろん、そういう操作を、全くしていないにもかかわらず、です。
あやのんさんは、多くのnoterさんに心の拠り所を与えてくださる、懐の深い方。わたしも、いつもたくさんの励ましを得ています。
描かれる絵も、読まれる短歌も、わたしは大好きなのですが、こちらの記事に書かれているような、「ちょっと不思議なこと」にも愛されるお方だと思います。
読ませていただき、まさにその前日に、わたしのところにも「観音さまがやってきた」ことを……わたしも記事に書いてみようと思いました。
最近、noterのみなさんとの目にみえないつながりが、どんどん強く、力に満ちていくのを感じていて……それを大事にしたいな、と思っています。
あやのんさんが、こうして観音さまをみせてくださったのですから、わたしもそれをつなげていく。
あやのんさんのご投稿の前の日、わたしは実家の菩提寺で、お十夜法要に参加しました。
お十夜というのは、浄土宗の念仏行事です。
念仏、「南無阿弥陀仏」を唱えることの大切さなど、あらためてご住職が法話でお話くださいました。
既知のとおり、浄土宗は大乗仏教の教えです。苦行や正しい行いを通じて個々人が悟りを開くことを目指す上座部仏教(小乗仏教)に対して、誰もが、ただ念仏を唱えることで悟りへと導かれていく、その道を説く宗派です。
念仏を唱えるだけで救われる──この概念は、一般に広く知られたことですし、だからこそ、その教えに違和感を覚えたことのある方も、少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
少しニュアンスが違いますが、イエス・キリストの言葉とされる、「求めよ、さらば与えられん」という一節にも、わたし自身は同じような氣持ちを抱いたことがあります。
ただ悟りや幸せを望み、祈るだけでそれが叶う──。
とてもざっくりした解釈ですが、どちらも、そんなふうに受けとめることができるからです。
本当にそれでよいの?
よい行いをするとか、真実を学ぶとか、辛いことを乗り越えるとか……そういうのは必要じゃあないの?
求めたり、念仏を唱えたりするだけでよいの?どうして?
それは子どもの頃の、いたって素朴な疑問でした。
頑張らなくてよいの?
「よい人」にならなくてよいの?
同時に、唱えるだけ、祈るだけだけで幸せになるという感覚は、なんとなく好きだなあとも思っていました。
誰もがたやすく幸せになり、悟りを開き、天国や極楽にいかれるなら……そんな素敵なことはないですよね!
さて、観音さまがわたしのところにきてくださったのは、そのお十夜法要の最中、ご住職の一時間に及ぶ法話をおききしているときでした。
先にお断りしておくと、わたしは仏教に詳しいわけではありません。
ですからここに記すことは、仏教に精通されている方からしたら、「ん?」と首をひねりたくなるようなことかもしれません。
わたしは神様も仏様も、天使さんも如来さまも菩薩さまも鬼さんも宇宙人さんも……みんな同じように大好きで、いろいろな形で届けられる氣づきを、どれも大切にしています。
個人的な氣づきですので、たいていは文章に著わすこともなく、ただ自分の学びとしますが、今回は、あやのんさんの素敵な記事に触発され、それをつないでいきたいと思いました。
少し不思議だと感じられる部分もあるかもしれませんが、決して大袈裟なことではなく、わたしの体感に過ぎません。空想だと捉えてご一緒に楽しんでいただけるなら、とても嬉しいと思います。
さて、念仏にまつわるご住職の法話に耳を傾けている最中、お堂の高い天井から、なにかキラキラしたものが、わたしのすぐ目の前に降ってくるのに氣がつきました。
もちろん雪ではありませんが、粉雪のスピードで舞い落ちる、きらきら光るなにか──です。
わたしはとっさに、膝においた手をわずかに前にさしだして、舞い落ちる雪のようなキラキラをてのひらに受けとめました。
その右手に、左手に──わずかですが、じわーっと、重さに似た圧力がかかりました。てのひらが熱くなり、圧力を感じた部分から、ゆっくり、螺旋を描くように、上昇気流が立ち昇っていきました。
その気流は、手に落ちたキラキラを舞いあげながら、そして、天井から降り続ける光を巻き込み、巻きあげながら、左右のてのひらに、小さな塔のような、筒のようななにかを形づくっていきました。
30㎝程の高さがあったでしょうか。それは光りながらしだいに人を思わせる形となり──ふと氣づけば、わたしの左右のてのひらには、二尊の菩薩さまがすっくとお立ちになっていました。
右手に観音菩薩さま、左手に弥勒菩薩さま。二尊とも、微笑んでいらっしゃいます。
そのお姿がわたしの目に映ると同時に、わたしの心に観音さまから──なにか「言葉」が届きました。なぜだかそれは、二尊のうち右手にのった観音さまの言葉だと感じるのです。それがなぜだったのか……は、いまもよくわかりません。
そして、観音さまの御言葉ですから、わたしの言葉に置き換えると正確ではなくなりますが……あえてそれをするならば、とてもシンプルな言葉になりました。
──わたしたちは、既に幸せなのだ。
本当にシンプルな言葉。
けれど、そんな簡単な言葉が、たしかにわたしのなにかを開きました。いろいろなことがいっぺんに、腑に落ちていく氣がしました。
そうか。
わたしたちは、既に幸せなのだ──。
だから、願えば簡単に手に入るのです。
求めるだけで、与えられるのです。
探さなくても、遠くにいかなくても、わたしたちは、もう幸せの中にいる。
わたしたちに必要なのは、ただ、それに「氣づく」機会です。
その目的が果たされれば……方法は、たぶん何でもよいのです。
幸せが高い山の上にあるのなら、頑張って登れば登るほどそこに近づける……と考えるのは自然なことかもしれません。
でも、世界が既に幸せに満ちていて、それに氣づくだけでよいのなら、「きっかけ」さえあればいい。方法は本当になんでもいいはずです。
頑張る必要はないけれど、頑張ってもいい。
苦しむ必要はないけれど、苦しんでもいい。
念仏でなくてもいいけれど、念仏を唱えてもいい。
笑うことを望むなら、望みの通りに笑っていればいい。
各々が、ただ選べばいい。
なにが自分の「きっかけ」になるか、それを手探りで探していけばいい。
ふと、自身の経験を思いだしました。
苦しくてたまらなかったことを自分なりに乗り越えたとき、「ああ、乗り越えたぞ。高いところまできたぞ」とか、「ようやく幸せにたどり着いたぞ。ここまできたぞ!」とか、そんなふうには全く感じませんでした!
ただ、体が軽くなった。心が明るくなった。世界のみえかたがかわった。
それだけでした。
それだけで十分でした。
それだけで、わたしは幸せにつつまれました。
きっと、幸せが、既にそこにあったからです。
まるで、閉め切られていたカーテンを開いたら、光る景色が胸に押し寄せたみたいに。
存在すら知らなかった窓に氣づいたら、風を取り込めたみたいに。
氣づく。氣づいて開く。
それだけでよかった。
長く続いたご法話が終わるころには、左右のてのひらにじんとした熱さだけを残して……二尊の菩薩のお姿は消えていました。
どのくらいの時間、観音さま、弥勒さまとともに過ごさせていただいたのか……はっきり思いだすことはできません。
けれど、てのひらに生まれた小さな上昇気流の感触は、目を閉じ、心を静めれば、いつでも再現できるような氣がします。それは、とても幸せなことだと感じています。
ところで、「菩薩」という言葉の意味をご存知でしょうか。
実は菩薩とは、悟りを求める者──悟りを開くために修行を続ける存在です。
既に悟りを開いた存在は「如来」と呼ばれ、その如来になるための「修行中」であるのが菩薩さま。
ということは……ですよ。あくまで個人的な解釈ではありますが、わたしたちって、みんな、菩薩ではないでしょうか。
どういう方法でかはわからない。
それがいつかもわからない。
でもわたしたちは、いつかきっと、そこに幸せがあることに「氣づく」。
必ず、悟りにたどり着く。
必ず、必ず、必ず。
だからわたしは、人はみな菩薩さまだと、いま心から思えます。
あやのんさんは、あやのん菩薩。わたしは、くりすたるる菩薩です。
あなたも菩薩。あの人も菩薩。
……という投稿をしようと思っておりましたら、なかよしのnoter、Blue handさんが最新記事を投稿されました。
なんと記事中で、観音菩薩になります宣言!
うん!本当につながっていますね!
今日はBlue handさんのお誕生日でもあります。
心から、おめでとう!
これからも、つながっていきましょうね!
こちらの記事に、ふたつのコングラボードが届きました。記事にご協力くださったみなさま、スキをくださったみなさま、本当にありがとうございました!