生まれ変わる方法。コツコツと。

良かれと思って
相手の為にして差し上げたことが
要らぬお世話だったと知ったとき

人はどのような反応を示すだろう

まぁ、がっかりしたり
腹立ったり、悲しくなったり…
とかですよね。

でも、圧倒的な
揺るがない自己価値を持っていたとしたら

「あ、余計なお世話だったんだ。」

で、終わりなんですよね。

自分の傷に触れられると

ある意味、元気がある場合。
跳ね返すパワーがあるならば
怒りが生じます。

怒る気力が無ければ
ひたすらに悲しみ。

感情の順番としては
怒りの奥には「悲しみ」があって

その「悲しみ」を感じたくないから
「怒り」が一生懸命に働いてくれます。

だから、怒りは自分のエゴを
守ってくれる為の戦士なんだよね。
一生懸命守ってくれている。
番犬が不審者に吠えまくる、あれ。

エゴを守ってくれようとする戦士が
戦えなかった場合
悲しみに触れてしまうことになるので
心は痛みを感じる。

その痛みをいつまでも
大切にしまっておいていいのなら
そのままでもいいけれど

その痛みを感じたくないから
怒ったり、焦ったり、不本意なコト
やってしまうんですよね。

事実と感情を分ける

もちろん、人から嫌なことをされたら

「なんなんだよ!!!プンスカ!!!」
「失礼すぎる、なんなのあいつ…!!」
「うわ〜〜大っ嫌い〜〜………!!」 

と、思うような
ありのままの感情は
隠したり、なくそうとする必要はない。

無理に達観している聖人のように
なろうとしてしまうと
かなり苦しいことになります。 

痛みを身体的な怪我に例えたら
足を骨折して、流血状態で
「痛くない痛くない」
と、無理に言い聞かせ
日常生活を送る苦行のような。

まぁ、そこから得られるものもあるとは思う。
その痛みをしっかり味わったり
内観ができていたら。

何故、怪我をしたのか
自分はその怪我をどう捉えているか
自分は何を感じ、求めているのか

「なぜ?」との問いかけが
そうやって明るい場所へ
誘われていく出来事に変えられると思う。

でも、現代社会のインプットや
刺激の多い中で
流血骨折放置で日常生活を送るなんて 

身体より先に精神が壊れてしまうはず。

わかったふり、がもたらす悲劇

本当に達観して、ネガティブに
感じなくなっているのならまだしも
不自然に感情を止めたりすると

感情が行き場を無くして
「気づいて!」と
身体の症状として

痛み、痒み、だるさ…
などなどになったりもして。

本当の自分は、気づいてほしいから
違和感として現れてくれる

だから、しっかり感じてあげたなら
スーッと消えていきます。

消そうとして、薬を飲んだり塗ったり
身体を切って、貼って
入れて、出して、縫って…
ラクをしたい。 

自分を変えないまま
出来事が変わってほしいと願いだす。

だけど、身体がこころが
本当の自分が訴えるものに
気づかなければ
気づくまで終わらない。繰り返す。

違和感は消さないで

感情に違和感があるのなら
心に触ってみてほしい。 

そして、苦しいなぁと思うなら
存分にその苦しさを吐き出してみてほしい。

決して善悪の判断はせずに。
ジャッジしだすと
本音が出てこれなくなっちゃうから。


たとえば。
職場で「あなたは要領が悪いね」
と言われたとして

「そんな言い方しなくてもいいのに…腹立つ。」
「いつも人に対して厳しいし嫌い。」
「この人、いつもわたしにだけ当たりが強い。」

「そもそも、あの顔がムカつく。
「先週、あの人のミスをわたしがフォローしたのに何様のつもりなんだよ。」

などなど…。


「あんな言い方しなくていいのに」
に対して
「じゃあ、何て言ってほしかった?」
と問いかけると

「何から手を付けるか優先順位を付けてみたら?とか言い方があるだろ!」とか
「そもそも、あの人から何も言われたくない」とか…

あとは
「なんか、あの言い方は嫌だった」
「わかんないけど、あなたは要領が悪いねとは言われたくなかった」

なんて「なんか」「わかんないけど」
が出てきたら、ココ。

ココ、あります。
正体、ありますよ。掘りドコロ。

うまく言葉にできない
いや、しないことで守ってるもの。

見ようとしない、見たくない
煙に巻いてる。

「なんか」とか「わかんないけど」
「うまく言えないけど」が
ポワワワワ〜ンって
真実をぼかしてくれている。

更に更に、問い続ける

その掘りドコロ。

その「あんな言い方しなくていいのに」
と、昔に感じた経験を思いだしてみるんです。 
深掘りしていく。

「あんな言い方しなくていいのに」
と感じた時に、生じた痛み

それです。
それが、うずいているんです。
やめて、痛い、って。

例えば小2の時に
「お兄ちゃんはできるのに」
「なんであんたはそんなにボーッとしてんのよ」
と言われたことがあるとして。

自分は頑張っても正当な評価ももらえないし
結果も出せないから、
人一倍努力しなくちゃ…

と、子どもながらに
心に決めたことがありました。

でも、本当は
「あんたは、マイペースだけどちゃんとできる子だってわかってるよ」

「お兄ちゃんだって最初はできなかったけど、できるようになったんだから。あんただって必ずできるよ」

「あんたは要領が悪い。だけどお母さんはあんたのこと大好きだよ!だから一緒に頑張ろうね。」

そんな風に言われたかった。
お母さんから、言ってほしかった。

大丈夫だよ、って
触って伝えてほしかった。

目を見て、大好きだよって言ってほしかった。
お母さんに自分を信じてほしかった。


大丈夫だよ、できるよ。
信じてるよ。かわいいね。
すごいね!

そうやって
認めてほしかった。愛してほしかった。

本当は欲しかったって言えなかった
本当はそれ、やめてが言えなかった

本当の自分の気持ちが
いつまでもいつまでも
その場所に留まっている。

思い出してる。反応してる。

この例え話の主人公。小学2年生。
三ツ矢サイダーを飲みながら
タッチの再放送を観ていた夏休み。

お母さんに、夏休みの宿題が
全然終わってないことを
怒られたときに感じた悲しみ。怒り。

その思いが置き去りになったまま
大人になって、今があって。
でも、その思いには気づかないままで。 

でも、ふと
三ツ矢サイダーを飲んだときに何かが蘇る。
タッチを見ると、なんかどこか胸が疼く。

なんかわかんないけど
どっか悲しい。

自分が気づいてあげられなかった
過去の自分が「ここ!」
「ここにいるよ!気づいて!」
って言っている。

なんか胸がザワついたり
なんかイライラしたり
なんかムカムカしたり

そんな風に、脳ではない領域で思い出している。

積み上げてきた「もうひとりの自分」

人生で経験してきたことにより
作り上げてきた価値観。
その価値観を通して世界を味わっている。
思い出している。反応している。

自分で考えて、思って
一生懸命出した
自分だけの答えのつもりでも

自分の積み上げてきた記憶の寄せ集めや
価値観によって反応したものだったりして。

本当の自分を出せずに
もうひとりの自分を作り出して
その存在がメインになって生きていたりして。

それがニセモノだから
悪いんだ、って話ではないんです。

本当の自分の気持ちに気づきたい
という話をしていたら
こんな長文になっちゃったんです…!


置き去りになった自分を取り戻す

本当の気持ちが置き去りになった瞬間
そのまま時が止まっていて

本当の気持ちを抱えたままの自分が
その場所でうずくまっている。
気づいてもらえるまで。

そして職場で
「あなた、要領が悪いね」
と言われたときに 
怒りや悲しみの矛先がその発言者に向かう。

根底には小2の自分が
お母さんに言われたときに
生じた痛みがあって、反応しているのに。

だって
「あなたは要領が悪いね」
と言われて、しっかり本音言ってくれるから
好きだなぁこの人、とか

ナイスアドバイス有り難いなぁー!!って
本当に感謝する人もいるからね。

これも、価値観の違いによる反応。

じゃあ、自分の積み上げてきた
価値観のままで、残りの人生生きる?

っていう話なんです。

自分で、いままでの価値観に
縛られることなく生きられる。

いま起きていることに
何の意味もない。

すべては自分に気がつく為に起きていること。

嫌な出来事が起きたら
「あ、今ムカついた」
「何がそうさせてる?」
「ああ、あれか。」
「あの時の自分、しんどかったなー…」

と、あの時の自分に寄り添って
その自分が抱えている思いに耳を傾けて

労って、共感して…
否定しない。本音を知る。

傷ついた自分が
言ってほしかった言葉を
今の自分が言うんです。

今の自分が、当時の自分が
してほしかったことをするんです。

そして、置き去りになっていた
自分を取り戻して、今を生きるんです。

もう、過去の価値観のまま
世界を見なくていい。

そしたらまた再び
「あなた要領が悪いね」と
言われたとしても
感じるものは変わっているから。

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