クセつよさんよ奇を衒うなゆるふわで行け -『紫式部は今日も憂鬱』を読んだ-
高校3年生の夏期三者面談。受験を控えた大事な面談だったのだと思う。
開口一番、担任の先生は私のことを「個性的なお子さんですね……」と言った。「あと、遅刻の回数がちょっと多いですね……」。それで面談は終わった。ちなみに、遅刻日数=授業日数だった。
面談が終わった帰り道、私は「大して絡んだことない担任が言う"個性的"って完全に悪口やん!」と母親相手に憤慨していた。私がほんとうに、人も羨む個性を持っていたなら嬉しいが、私は平々凡々な、どこにでもいる、高校生だった。大人になった今は、片道1時間かけて行った面談の内容が「遅刻多い」しかなかったことについてまず母親に謝るべきだと思うようになった。
『紫式部は今日も憂鬱』はサイコーに面白かった。古典を令和の言葉に砕いて時代を超越する手並みが鮮やかすぎた。古典に詳しければ、もしかしたらニュアンスにひっかかるところがあったりするのかもしれないけれど、さしたる教養のない私はめちゃくちゃ無邪気に楽しみました。
特に、「朽木をへし折ってそれをさらに地中深く埋めたような引っ込み思案」な紫式部の処世術が、いま、自分らしく生きようと言われまくってるこの時代でも、やっぱり通用するな〜と、面白く読みました。
1番やっぱりまあそうだよなあと思ったのは、
浅い付き合いのコミュニティのなかではゆるふわにふるまって、うわべだけでもいい人のように振る舞うのが大事だってこと。
個性ってのはわざわざ剥き出しにしなくても勝手に滲んでくる。10代はわりと無自覚にみんな個性剥き出しで過ごしてる。「なにこいつ面白すぎ!サイコー!」とアホなことでゲラゲラ笑ってられる。でももう30代が始まってるので、その人から滲み出るくらいの個性で十分楽しめる。むしろ普段普通〜のことしか話さなかった人の言葉の端やふるまいにその人なりの個性が意図せず滲んだ時にわ!と嬉しい気分になる。
たとえば私が10代だったら、「見てこれ!百年の孤独トートバッグ!ブエンディア一族の家系図がプリントしてあるんだよ〜😊」と言ってもギリ許される。はず。私の優しい友達なら笑ってくれるはず。
でもそんな30代嫌だ。ウザすぎ。もちろんとっても仲良い友達相手ならいいかもしれないけど、大人の付き合いの中でそんなことしない。だから百年の孤独トートバッグで保育園の懇談会に行っても私は誰にもそれをアピールしたりしない。
やっぱり、「えっこのホセがどのホセ?」みたいなことを言う人はいなかった。暑いねー、とか、髪色変えた?とか、そんなことを話した。
それでもたぶん私は滲み出てる。他のお母さんも無難な空気を共有するために普通に振る舞ってたけど、やっぱりみんな滲み出てた。これまでたくさんの生徒と話す機会があったけど、いわゆる普通の子なんて一人もいなかった。ゆっくり話してみたらみんな面白かった。だからたぶん、みんなゆっくり話したら、普通、の人なんていないんだろうなって当たり前のことを思った。キラキラで誰もが羨む突出した個性に憧れないわけではないけど、日常生活ではそんな奥ゆかしい個性を嗜みたいと思う。