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比較は一つの手段。
この文章は、2日に渡って書いた。
前半と後半で心持ちが変わった。
ぜひ後半まで読んでほしい。
生きるは、生き続けるは、
常に苦い。
お金が物を言うし、
能力は確かな差を生むし、
時間は人生そのものだと見なされる。
見た目は、人を判断する大きな材料である、
にもかかわらず、いくら見た目に気をつけても
実はみな自分自身のことで精一杯である。
比較しているうちは
あらゆるものを善悪や好き嫌いで区別しているうちは
生きるは、きっとずっと苦い。
(後半)
幸せとは何だろう。
本人がどう感じているかを、基準にするならば
幸せはきっと条件に縛られず、手に入る。
お金、能力、時間は確かに存在していても
必要条件ではない。
全てを持っているように見える人も
本人は不幸だ、と思っている場合がある。
お金が比較的に少なくても
能力が比較的に低くても
時間が比較的に少なくても(年配の方や、過去に後悔がある方など)
幸せは感じることができる。
本当は条件などない。
比較していたら、いつまでも
足りない点、至らない点は見つかる。
比較は成長のために利用できる。比較が大きな力にもなり得るだろう。
しかし、成長を目指す前提として
今の自分を肯定する、納得することが必要だと考える。
成長しようとするマインドとして
「このままの、今の自分で十分素晴らしい。幸せだ。その上で成長したい、だから比較する。足りない点を見つけ、自分を押し下げるためではない。足りない点を見つけ、自分をさらに引き上げるためだ。」
が健康的なのではないか。
これは理想論かもしれない。
現実的には比較によって
自分が押し下げられるように感じ、
何度も自分はこのままで素晴らしいのだと
自分に思い出させることが必要だろう。
結論として
どんな過去でも、どんな現在でも
必ず幸せを感じられる条件は揃っている。
比較は成長のための手段として、
用法、用量を守って使って。
と言いたい。
ここまで読んでくれてありがとう。
私はよく、難しい、固い、考えすぎ
と言われるのだが
文章からその印象が伝わっているだろうか。
本心をできるだけ簡単な言葉で
面白おかしく書きたい。
もう一度、読んでくれてありがとう。
スキ♡もありがとう。