【短編小説】君がまだ知らぬ夜
「主任。もうこんなオフィス抜け出して
僕と水星にでも旅に出ちゃいません?」
水星はいたずらに笑いかけ
私を夜空へ連れ出そうとしているようだ。
彼はキーボードの上にある私の右手を握った。
彼は、翼の生えたサンダルを履いていた。
オフィスも慌ただしい午後2時、
パソコンと険しい顔でにらめっこしていると
私に呼びかける声が耳に入たので
慌てて姿勢を正し、椅子を右方に回転させた。
「あら水星くん。どうした?」
「寺田主任、さっきの会議資料まとめ終わりました」
「え、もうできたの?
さすが仕事早い…!いつもありがとね」
「主任のその言葉が聞きたくて、頑張っちゃいました」
彼はいたずらに左の口角をクイっと上げ
私を見つめてくる。
「もう、すぐそうやってからかう」
「嫌ですか?」
「嫌というか…ほら、そんなことより
昨日依頼してた例の商談の件どうなった?」
「あれから資料作り直して
今朝もう一回提案したら先方にも納得いただけて、
今週中には問題なく受注できそうです」
「そう、よくやったわね。引き続きよろしくね」
「はい!お困りごと、面倒ごとは
いつでもこのミズホシまでご依頼ください!」
彼は本当に要領が良い。
新卒入社後、営業部に配属されて5年目になる彼は
部署内では若手ながらに既に大手顧客を任されている。
それでいて組織内のこまごました雑務も
嫌な顔一つ見せず軽やかにこなしてくれるので
主任の私としては本当に頼りになるメンバーである。
一方の私はというもの、
入社8年目になり絶賛同期たちと
出世争いの日々に追われている。
どうやら私は、近年急に会社が声高に謳いだした
『女性管理職育成プログラム』に組み込まれており
部署初の女性管理職を輩出しようと
祭り上げられている感じだ。
仕事にやりがいも感じるし、楽しさだってある。
月に1回のエステはプレミアコースを選べるし
ネット通販で見つけて気に入った
数万円のバッグを衝動買いできるだけの
十分な給料ももらえている。
ただやはり、30歳を迎えると
ハードな仕事に体がついていかないという
あまりに残酷な現実にも直面している。
いくら女性管理職などと謳っても
やはり根強い男社会の風潮は変わりなく
寝不足による肌荒れや眠気、
クーラーの効いた部屋での生理痛などといった
身体的不調による弱音など吐けない。
次の評価面談で良い評価をもらわなければ
係長昇進への道はかなり厳しくなる。
次回の新規プロジェクトの企画案作成に
かれこれ数時間も頭を抱えていた私は
時計の針がもう夜の9時8分を指していることに
ようやく気が付いた。
オフィス内の明かりは大方消されており
私の座席の列のみ照らされている。
32階から窓の外を見やると
一面に都会の夜景が広がっていた。
「今日の夜景、なんか星空みたいですね」
てっきり自分一人しかいないと思っていた
だだっ広いオフィスから声がしたことに
驚きの声を上げた。
「えっ、水星くん?まだいたの?」
「はい、今日中にやりたい仕事があったので」
「こんな遅くまで残業してちゃ体に悪いよ?」
「その言葉、そっくりそのまま主任にお返ししますね」
彼はそう言って笑いながら
私のデスクにコンビニで買った
シュークリームを置いてくれた。
「甘い物でも食べて一休みしてくださいね」
「え~、ありがとう…めちゃくちゃ嬉しい」
私はデスクを両手で押して椅子を転がし、
パソコンと少し距離を離すと
本日初めての固形物を頬張った。
空席になっている隣のデスクに彼も腰を下ろすと
同じくシュークリームを頬張った。
静まり返ったオフィスで2人して
シュークリームを黙って頬張るのも
あまりにシュールに感じたので
他愛のない雑談でもしようと彼に話しかけた。
「水星くんって、大学何学部だったんだっけ?」
「僕ですか?天文学部です」
「へ~。てことは理系なのか。なんか意外かも」
「そうっすか?まあ、ただの宇宙オタクですけどね」
「いいじゃん、オタクくん。
なんか宇宙の面白い小話でも教えてよ」
「主任がそう仰るなら、
遠慮なくオタク炸裂させちゃいますね?」
「えぇ、大歓迎ですよ?」
「じゃあ、僕の名前にちなんで
“水星”についてのお話をしましょう」
彼は椅子から少し腰を浮かせて座り直し
上体を私の方に乗り出し気味で
少年のように瞳をキラキラと輝かせ
両手で大きく太陽系を描くように
身振り手振りで話してくれた。
「まずは、僕達の暮らす地球の常識として
1日は24時間、1年は365日でしょ?」
「うんうん、そうね」
「でもこれはあくまで地球という名の
1つの星の常識であって他もそうとは限らない。
いわゆる1日っていうのは
星が自転する時間の長さのことで
1年というのは星が太陽の周りを
公転する時間の長さのことなんですよ」
「なるほど?」
「その理論で考えると、
水星ってかなり不思議な星なんです」
「水星の自転公転スピードはどのくらいなの?」
「水星は太陽系の中では太陽に最も近い星だから
その分太陽を1周するのにかかる時間は
地球時間にしてわずか88日!」
「え、3か月とかで1年経っちゃうんだ」
「そうなんです。でもね、一方で
水星自身が回る自転速度がめちゃくちゃゆっくりで
自転周期は約59日なんです」
「えーっと、つまり?」
「水星の1日は地球時間でいう176日なのに
1年は約88日っていう、不思議な星なんです!」
宇宙という話のスケールの大きさと
そこに存在する事実への理解の至らなさに
混乱して目を丸くしていると
彼は話の視点と声のトーンを明らかに変えてきた。
「僕ね、自分自身は地球時間じゃなくて
水星時間で生きてると思うんですよ」
「どういう意味?」
「僕の1日はあまりに長い。
なのに気付くとどんどん歳を取ってしまう」
「どうして?君はまだ若いよ?」
「僕、めちゃくちゃショートスリーパーで
1日2時間しか眠れないし、それで充分なんです。
だから普通の人が眠りに使える時間さえも
僕は脳みそを動かし続けないといけない。
そんな風に生きていると同世代の人たちよりも
一足先に世の中の真理とか不条理とかに
気が付いてしまって、いわゆる精神年齢ってやつが
勝手に年を取っていってしまう感覚なんです」
私は初めて、器用で要領の良い
明るい彼の闇を見た気がした。
「水星くんの仕事がいつも早いのは
夢を見られない分、他の人よりもたくさんの
現実世界と向き合っているからなんだね」
彼は少し寂しそうな表情を浮かべながら微笑んだ。
「神話によると水星には、
ヘルメスっていう神様がいるらしいんですよ」
「どんな神様なの?」
「商売、盗み、賭け事、スポーツ、音楽、
天文学、数学、度量衡、旅とか、稀にみる
かなりの多ジャンルの神様らしいんですよ。
だから僕も1日が長い分、主任の困りごと
なんでも助けてあげたいです」
「頼もしい神様ね(笑)」
「あんまり器用なヘルメスだから
みんながあちこちに呼びつけるんですよ。
だから彼のトレードマークは
翼の生えたサンダルで、それを履いて
いつでもどこでも飛んでいくんです。
主任が望めば、僕どこにでも連れていきますよ?」
またいつものからかいだろうなぁと思って
半分笑いながら彼の顔を見てみると、
熱い視線が一直線に私の瞳へと注がれていた。
「主任、最近すごい疲れた顔してる」
「そうかな…まあこんなもんだよ」
「俺、主任と同じ時間軸を過ごしたいんです」
「ん、なに言ってるの?」
「今業務外なんで、正式に口説いてます」
「はい?」
気のないふりをしていても、
私の体の表面温度はどんどん上昇していく。
「主任。もうこんなオフィス抜け出して
僕と水星にでも旅に出ちゃいません?」
彼はキーボードの上にある
私の右手を優しく握った。
「水星の1日は長いです。ゆっくり過ごしましょ。
でも僕ショートスリーパーなんで、
たぶん今夜は主任のこと寝かさないと思います」
彼は、翼の生えたサンダルを履いて
私を金曜の夜へと連れ出した。
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