本質・事実を知りたいという人へ―昨日の関連記事かもしれない。
少し長いが、また前回の記事と同じかたの文章を引用させていただきたい。
ー『本当の歴史を知りたい』『事実を知りたい』と社会の設定に疑問を抱くとよく言うが…。
それ以前に、自分が持ってる体(体内)や自分の空間構造を知らない。
世間一般に出回っている人の設定や人の体(体内)の設定と、自分の体や動きが違う事に気付かなくて自分以外の事を知る事は出来ない。ー
ー明治の祖母は歴史や人体だけでなく、なんでも誤魔化さずに子供のオレの質問に答えてくれた。
江戸明治を跨いだ曾祖父や先祖からの口伝はあったけど。子供のオレからしたら『なんでそんなことまで知ってるの』だった。作り話だとも思った。
祖母は『花や木やみんな(自然)が教えてくれる』と言った。―
クライアントや受講生とのセッション中にも、「本質が知りたい」「真実が知りたい」「本当のことを教えて欲しい」などなどと言われることがなかなかたくさんある。
が、はっきり言って、「敢えて」カウンセリング的なやりかたで言語化して伝えても、例え文章になっても日本語になっても、本人には「わからないまま」になる。
本人はその瞬間は理解できたようなつもりになることもあるし、それすらなくわからない場合もある。表面的反応や見え方はさまざまではあるが。
これはどうしてかというと、日本語理解能力の問題ではなく、まさにこのかたの言う、上記のような理由なのだ。
ーそれ以前に、自分が持ってる体(体内)や自分の空間構造を知らない。
世間一般に出回っている人の設定や人の体(体内)の設定と、自分の体や動きが違う事に気付かなくて自分以外の事を知る事は出来ない。ー
つまり、本当の意味で心身が健康で全体が全体すべてなのだと気づく、というより気付くも何もいつの間にか当たり前にその状態で「在る」、「自己一致」するまでは、自分の「顕在意識で設定したルールの箱庭の中」にしかおらずその中の考え方しかできない(それは宇宙や世界どころか自分自身の個の存在よりも何億分の一)ので、(その人たちにわかる言葉を使うと)「自分以外のこと」を、知ることはできない、というわけだ。
同時に、私は、いろいろなクライアントさんや受講生さんに、「その年でどうやってそれほどの広い領域を学んできて、会得してきたのか」「なんでそんなことまでわかるの、知っているの」とよく聞かれる。
だが、これには言語でこたえようがない。
確かに、言われてみれば、(顕在意識では)自分でもそう思うほどである。
だが、「生きている中で会得してきた」としか言語化しようがない。
それと同時に、私は自分の持っているホリスティックアプローチの概念を何とかして伝えていこう、セラピスト養成をしようと何種類ものテキストを作ったが、説明しても説明しても、多くの人にはテキストに書いてある文字上を滑るような内容しか結局入っていっていないことも感じてしまっている。
これらはどうしてか。
言語ではない「日常のすべての瞬間」はもとより当たり前のことながら(そこからすら何も得ない現代人も激増しているが)、「言語」で伝えたことも、実は「言語で伝えることによって」非言語で伝えている情報が実は膨大なのである。(これを催眠療法的言い方では「暗示」ともいう。)
これを受け取り自分のものとして吸収しないで、言葉上の「文字数」だけを滑るように受け取る(というより実はそういう人はその文字上すらも入らなかったりまったく別の意味でとらえてしまったりするのだが)、ということしかしなくなっている現代人が、とてつもなく多い。
ちなみにこれの理由は、「自分自身がそもそも他人になっている」から。
自分という膨大な構造をもった身体や意識(流行り言葉でいえば潜在意識)というもので受け取ったものが、まるで「自分と関係のない他者が受け取ったもの」になってしまっているのだ。
(ここのところは私は他の記事でもそうとうたくさんいろいろな角度から書いてきているので、この記事ではこれ以上は割愛する。)
それと同時に、
現代人に増えているのが、
「自然や動物や植物の声を聞いている、意思疎通している」と思い込んでしまっている人、しかしそれが実は例えていわば「自分の箱庭の中で自分自身がその中に作り出したキャラクターや箱庭の壁に向かって話して反響して返ってきているものを『相手の動植物や石などと対話している』と勘違いしてしまっている」状態である人がこれまた激増しているということ。
『花や木やみんな(自然)が教えてくれる』というのは、
そういうことではない。
そういうことではないから、「生きている中で会得してきた」としか言語化しようのないような、上記のようなことが起こる。
ついでに、上記のことは心理療法的な言い方では、このようにも言い換えることはできるかもしれない。
私は確かに、
「そんな健全な生活習慣をしていてどうしてその日中の時間だけでそれだけあらゆる活動をこなすことができるのか」、
「どうしてそんなにいろいろなことがわかるの」、
「どうしてそんなにたくさんのことを知っているの」、
などと言われることも多いが、
当然ながら、これは、知識ではない。
私など、そんな大した量の知識は持っていない。
ただ、冒頭の引用の中の言葉とつなげると、
「自分が持ってる体(体内)や自分の空間構造を知らない。
世間一般に出回っている人の設定や人の体(体内)の設定と、自分の体や動きが違う事に気付かなくて自分以外の事を知る事は出来ない。」
これは、自分(ヒト)の心身の原理原則、そこからひいては大自然の原理原則を身体で知っている(今の人たちが「知っている」という言葉を使うのは、ほとんどが頭で表面的に知っている知識の事をさす。そうではない。)ということ。
そうすると、自ずと本質からものごとをみるという方法(角度)が出てくる。
だが、現代日本人、本当は本来、これらがわかる身体構造や身体の使い方、原理原則をとても活かす方法を持っているのに、これを使えないよう、無意識に自分自身の生活習慣や身体(=心)を歪ませてしまう多数の心理的プログラムを自分自身に埋め込んで鎖のように食い込ませ雁字搦めにしている。
少なくとも私自身は、それを、取り去ってきた、といえる。
これに雁字搦めにされているころは、私は知識にしても視えるものにしても考えが及ぶものにしても想定できうる可能性にしても、活動量や内容の種類にしても、まるでなかった。
自分自身の生き様すらわからなかった。
この、言葉短くではあるが心理療法的角度からの補足を読んでからであると、上記の記事の意味や、冒頭の引用「『花や木やみんな(自然)が教えてくれる』」という意味の感じられかたに、少し変化があるやもしれない。