椅子の美術館、椅子の展覧会「アブソリュート・チェアーズ」
はじめに
「椅子の美術館」こと埼玉県立近代美術館にて開催されていた、「アブソリュート・チェアーズ」を母と一緒に観てきたという旅行記。その看板に偽りなし、企画展以外でもめちゃくちゃ椅子あった。というか企画展がとにかくよかったためたくさん語りたい。
この企画展は愛知県美術館(7/18-9/23)へと巡回するため、逃した方はぜひそちらに行ってみてほしい。また埼玉県立近代美術館は、この展示を抜きにしても大変魅力的な美術館であった。その点についてもいろいろ紹介していこうと思う。
アブソリュート・チェアーズ
●埼玉県立近代美術館(北浦和公園)に……
●公園に入るとさっそく彫刻が
●美術館前にも
埼玉県立近代美術館の位置する北浦和公園と、美術館の外にはたくさんの彫刻が置かれている。その一部は「館外・北浦和公園の芸術作品」にて回想したい。
●美術館1階ロビーにはマイヨール
それにしても彫刻作品がとても充実している印象。しかも展示室に入る前だ。
●企画展を観るため2階へ上がると……
吹き抜けの上部からぶら下がったなにかがある。座らせる気はまったく感じられない。これは企画展の出品作品のひとつだ。
─アブソリュート・チェアーズ入場─
北浦和公園に来てから企画展に入るまで、まだ載せていないものも含めればすでにいくつもの芸術作品を見た。やっと本命にたどり着く。
第1章 美術館の座れない椅子
美術館に置いてある椅子のすべてが、来場者に安らぎを提供してくれるわけではない。展示されているものはもちろんのこと、座面に自転車の車輪を備えた椅子なんて──。椅子のようなもの、あるいは椅子だったものたちが、鑑賞者に自己の存在価値を問いかけてくる。
●マルセル・デュシャンの「レディメイド」
マルセル・デュシャン《自転車の車輪》(1913)のオリジナルは失われており、本展に展示されているのは複製されたものである。同様のレプリカは図版で見たことがあった。残念ながら撮影不可であったが、今回対面が叶いとても感動した。(椅子と車輪を組み合わせただけのものを鑑賞して、感動できるようになったのだから感性が育ってきているというほかない。)
オリジナルは1913年に制作された、デュシャンによる最初のレディメイドであったらしい。《階段を降りる裸婦No.2》は1912年に描かれ、それは翌年にアーモリー・ショーへと出品された。その年にこのレディメイドを作ったというのだから、あまりにも時代を先取りしている。これはまだ一次大戦勃発前、「ダダ」という言葉も辞書のなかで無意味に場所取りをしているころだ。
この作品を見て思ったことは、許されるのならばなんとしてでも座ってやりたい、だった。車輪の回転軸と交わるように腰掛ければぎりぎり座れそうな気がする。あるいはスツールを踏み台に車輪を跨ぎ、馬乗りしてもおもしろい。偉大な芸術家による重要な作品かもしれないが、既製品を芸術に昇華することで生まれる価値が不可逆的なものなのかを検証してみたい。レプリカから芸術としてのヴァリューを剥奪してしまったほうが、あるいはデュシャンなら喜ぶかもしれないとそんな妄想をする。
●《自転車の車輪》から自転車の車輪をとっちゃった
竹岡雄二《マルセル・デュシャン「自転車の車輪」(1913)へのオマージュ》(1986)は、デュシャン《自転車の車輪》における椅子の台座としての役割に注目した絵画作品。《自転車の車輪》から車輪を取り払い、スツールのみを描いている。
たしかに言われてみれば、この椅子と台座とは似た役割を果たしているように思える。デュシャンのレディメイドにおいて、椅子は本来の役割を忘れ車輪を乗せる台になっている。単なる台座となったそのスツールに座る人がいたとしたら、それを見たものたちには滑稽な光景と映るのだろうか。きっとレディメイドを芸術たらしめたこの椅子は、そこに座する者すらも「見世物」にしてしまうことだろう。
●椅子だけど椅子じゃない
文字通り複合体。「椅子とレンガ」ではなく「紙コップとミシン」でもよさそう。《自転車の車輪》と違い、椅子が台座の役割すらも果たしていない点は興味深い。ここでの椅子は座るための家具でも作品を展示する台座でもなく、ただレンガと組み合わせて置かれた物体となっている。
しかしこれもなんとか座れそうだ。あとこの作品はどうやって運ぶのかな、というところが気になって仕方なかった。
●ツンデレ
岡本太郎《坐ることを拒否する椅子》はセラミック製のゴツゴツした椅子だ。なんと展示品のうち2点において座る体験ができた。うれしい~。
その奇妙なデザインによる起伏から、腰をかけたとき臀部に違和感を覚える。しかしその反抗はささやかなもので、彼らは人間を虐げることまではしない。これはツンデレかもしれない。
第2章 身体をなぞる椅子
椅子と身体は密接に繋がっている。そして車椅子のように、それはは体の一部になることもある。椅子と人との関係性を考えさせられる作品たちだ。
●フランシス・ベーコンの描く人物
フランシスベーコン《Triptych(三連画)》(原画は1974-77, 1983にポスターエッチング)と《座れる人物》(1983, エッチング)には、極度に歪められた肉塊が描かれている。人物以外のモチーフがなければ、きっと「少し不気味な絵だな」と感じて鑑賞を終えていたことだろう。
人ならざるものにも見えてしまうが、絵のなかには椅子をはじめとした現実的なオブジェもあるため、それにより「彼」は人間であると理解できる。そして絵のなかの椅子が接地する面と、鑑賞者が立っている面との連続を否応なく想起することになり、恐怖の念はその深度を増す。「彼」はいつでも立ち上がって、こちらに向かってくることができる。椅子の存在はそれを強調していると感じた。
●ロッキング・チェアに揺られて
アンナ・ハルプリン《シニアズ・ロッキング》(2005/2010)はリュディ・ガーバー監督による28分の映像作品。画面の前に置かれた椅子に座って鑑賞した。
ハルプリンは自身が癌を患ったことをきっかけに、集団的なダンスによるヒーリングを目指した。これは彼女がロッキング・チェアの上でもできるダンスを考案し、それが実践されたときの記録映像だ。
彼女と参加者との会話やダンスのパートが幾度も切り替わり映し出される。「日常的な所作であっても全てはダンス」、「ロッキング・チェアは座って夢を見たひとびとの魂を宿している」という言葉が印象に残った。
映像の終盤では、屋外での「本番」の様子を観ることになる。ハルプリンが「誕生と老いの象徴」だとするロッキング・チェアに座り、50人の高齢者たちがセッションをする。彼らが鳥のように羽ばたく動きをしたとき、鳥の群れが湖畔に降り立った。次第にみな立ち上がり、椅子に頼らずに踊り出す。
……長い映像だったのにかなり見入ってしまった。彼らは心の底から楽しんでいるように見えた。私が座った椅子の並びに、美術館のコレクションのロッキング・チェアが置いてあった。(映像を見始めたときは他の人が座っていた) 座って揺られてみるとなんとも言えない気持ちになる。ゆらゆら。魂の浮遊感。ロッキング・チェアはほんの少しの間、現実から私という存在を切り離してくれた。
第3章 権力を可視化する椅子
椅子は権力を誇示するための玉座にも、力に抗う者のバリケードにもなる。PowerとChairとの切っても切れない関係性がここに可視化される。
●勝者の偶像だろうか
全てが銃で作られたものものしい椅子。これはポルトガルからの独立後に長い内戦を経験した、モザンビークに残された銃から製作されたものだ。背もたれにはモザンビーク国旗にもその姿を現す、ソ連製の銃「AK47」が使われている。第1章にて見てきた物品たちとは異なり、こちらは椅子としての機能は十分に果たしてくれるだろう。
しかし座ることはためらわれる。すでにこの玉座には匿名の勝者が座し、いまなおその力を誇示し続けているのだ。国家を勝ち取った誇りが、内戦を生き抜いた栄誉が、血が、汗が、泥が、死者の記憶が──銃にはこべりついている。この椅子は不在であるかのように見える勝者の偶像、それを在るものたらしめる効果を発揮しているように感じる。
●処刑する椅子
アンディ・ウォーホルによる「死と惨禍」シリーズのひとつ、《電気椅子》(1971)。電気椅子はシルクスクリーンにより複製され、壁面に整然と並んでいる。考察をさておいて率直な感想を述べると、「初ウォーホルだ!うおおおおおお!!!」である。めちゃくちゃテンション上がった。
ところで本展の図録では、電気椅子を「死のイコン」や「磔刑図」と呼んでいる。電気椅子による処刑はうまく執行できないこともあったらしい。確かに電気椅子は苦しい死の直喩なのだろう。こりゃさすがに座りたくないよ。
「お前の血は何色だ!」とはよく聴く台詞である。ポップな色彩と暗澹とした主題との間に生じた温度差は、その言葉を権力者へと問いかける投擲力を誘起する。公権力をもって行使される究極の暴力のひとつが死刑だろう。「こういうことをするお前たちには、きっとこんな色の血が通っているんだろうよ!」と、カラフルに血塗られた電気椅子─そしてそこに座った者─たちは啼き叫ぶ。
●抵抗の象徴としての椅子
渡辺眸《東大全共闘 1968-1969》(1968-89/2014/2023)は、東京大学においての学生運動を記録した写真群である。そのなかでも椅子や机を積み上げて作られた、高い高いバリケードを写した1枚が印象的だ。
椅子でバリケードを作る話は、何かで読んだ気がするのだが忘れてしまった。ともかく日用品の用途を意図的に間違えることで、それは武器にも防壁にもなりうる。そしてこの間違える行為は、いつだって抵抗の象徴となる。レジスタンスは権力者とは異なり、まともに闘う手段を持たないことが多いだろう。だから彼らは手近なものを、こうするしかないからとあえて間違えて使う。椅子は力なき者たちの理解者であり庇護者であり、そして最適解へと導いてくれる道標でもあったのだ。
第4章 物語る椅子
椅子は斯く語る。ここにはいままでに誰々が座った、今日は何々を置かれた、と。第3章とは異なり「すぐそこ」にある椅子の姿。生活の隣人であるそれは、私たちの日常を記録している。
●日常の一幕
ミシンのドローイングにより、椅子とその座面に置かれた衣服が表現されている。タイトルが「椅子」ではなく「私の部屋」となっているのは、この椅子が決して特別なものではなく、日常の1ページに登場する役者のひとりであるからだろう。誰しも椅子に衣服を放置したことがあるのではないだろうか。
糸の末端処理は甘く、ところどころ解けて垂れ下がっている。そこから糸を引いてしまえば、ここに描かれた日常の1ページは欠落するだろう。どっしりと構えた椅子とは対照的に、日常というものは案外不安定な地盤の上に成り立っているのだと気づかされる。
●目覚めを待っている
透明な樹脂のなかには常温で気化する物質であるナフタリンが注入され、注入口は「目覚めを待っている」と書かれたシールによって封をされている。樹脂は数多の気泡を含んでおり、必然的に白い椅子は泡に囲まれることになる。その姿は眠りながら呼吸をしているかのよう。
これから述べる製作過程は想像だ。まずもととなった椅子から型を取り、なにかしらの素材でその分身を作る。分身を少しずつ透明な樹脂で覆い尽くす。樹脂が固まったら分身を取り除き、生まれた空洞へとナフタリンを注入。最後にシールによってそれを封印する。こんな感じではないだろうか。
モデルとなった椅子は歴史あるもののようだ。たとえナフタリンを気化させてしまったとしても、椅子型の空洞はそのまま残り、刻まれた時間と記憶を引き継ぐ。むしろ代わりに入ってきた空気が、この作品に新しい命を吹き込んでくれるかもしれない。あとこの作品、椅子としてのかたちはないけど座れるね。
第5章 関係をつくる椅子
見知った者同士でテーブルを囲む、団欒のひとときは楽しい。列車の座席に座っているとき、横に誰かがいるとなんとなく気まずい。椅子は近くに座った者たちの関係を構築する。
●社会と誰かとの関係を断ち切る椅子を……
まずこの作品を通して「排除アート」という言葉を知った。「座面に仕切りが設けられ体を横たえることができないベンチなどが知られる敵対的建造物(キャプションより引用)」のことを日本ではそう呼ぶらしい。屋外のベンチでたまにみる、手すりのようなものにはそんな意図もあったのか……。写真を撮られたシンガポールも、この「排除アート」といえる建造物がいたるところにあるそうだ。
そのような誰かと社会との関係を絶つような椅子を飾り付け、写真に収めたのが《インターベンションズ》のシリーズだ。その敵対的な意識の表出に芸術家はこのような手段をもって優しく「介入」し、誰もが安心して過ごすことのできる公共スペースを取り戻そうとする。
しかし鑑賞者はこの不寛容の可視化が意図したメッセージに気づけるだろうか? 私は残念ながら説明されるまで気づけなかった。キラキラと輝く藤の花は、声を上げられない誰かの姿を照らすと同時に、ハリボテの公共性の姿を暴きだす。
●「副産物」を椅子にすることで生まれた副産物
第2章の《シニアズ・ロッキング》でも少し触れたが、展示室内には副産物産店(山田毅と矢津吉隆が中心のプロジェクト)によって制作された椅子がちらほら置いてある。彼らはアーティストが作品を制作したときに出る廃材を「副産物」と呼び、それらを回収して加工し、副産物産店の作品として展示、販売する。そして彼らは本展のために新たな椅子をいくつも作った。
第5章に入ってから、副産物産店の椅子がいくつかまとめて置いてある場所があった。母とともにそれらを眺めていると、学芸員さんに声をかけていただいた。
「(《Absolute Chairs #1_rodin's crate》を見て)守られている感じがして意外と座り心地がいいので、ぜひ座ってみてくださいね。」
といったようなことを話していたと思う。この作品は本展の巡回先である愛知県美術館所蔵の、オーギュスト・ロダン《歩く人》を運搬するために使われた梱包材をそのまま椅子に仕立て上げたもののようだ。
学芸員さんにお礼を言い、さっそく座ってみる。なるほど、彫刻を守るためのクッションは、良い腰かけとヘッドレストになっている。背後は木材に覆われ、とても安心できる空間だ。ありがとう副産物産店さん。確かにこのとき、私たちと学芸員さんとの間にはひとつの関係が生まれた。これは思わぬ副産物だ。このあとは母とともに、あれはどうだったと感想を言いあいながら、置いてある椅子に座ってみた。やはり展示してある椅子に座れるというのはとても楽しい。
●敵も味方もない
チェス盤つきのテーブル、チェスの駒、椅子のすべてが白い。こちらは平日のみ実際に座り、駒に触れることができた。私も母もチェスのルールは分からないため、少し座って作品に触れてみるに留まったがとても貴重な体験をした。アンディ・ウォーホルのときと同じく、内心は「初オノ・ヨーコだ! うおおおおおおおお!!!」といった感じだった。
副題にあるとおり相手を信じて駒を進めなければ、たちまちどちらの陣営のものかわからなくなってしまうだろう。この作品はゲームを通して、対峙する者たちの間に信頼を基盤とする関係を構築する。しかし万が一ごちゃ混ぜになってしまったとしても、白黒つける必要はないし敵味方なんてない。白いチェス・セットはそう語りかけてくるようだ。
─アブソリュート・チェアーズおわり─
いやーすごかったなー。
MOMASコレクション(2024.3.2-6.2)
美術館のコレクションは椅子のほか、絵画、写真などもありとても充実していた。
次期のコレクション展ではシュルレアリスム宣言100年にちなんだ展示もあるらしい! 行かなきゃ!
─MOMASコレクション入場─
みられる椅子
「館内・展示室外の芸術作品>座れる椅子」でも触れるのだが、この美術館にはいたるところにコレクションの椅子が置かれている。展示されているものは「今日みられる椅子」、実際に座れるものは「今日座れる椅子」として紹介されていた。ここではMOMASコレクションの展示室内にて見られた椅子をいくつか列挙する。
●モダン!
●なんかかわいい
●ほしい
●おもしろい!
セレクション 誰かの気配
椅子以外も観ていてとても楽しかった。期間中にもう1回くらいは鑑賞したいな……。誰かがいたりいなかったり、描いている画家自身の気配を感じたり。そんな絵画が展示されていた。
●ドラクロワ!
ドラクロワもあるのか。とても写実的だが、近くから見ると意外にも筆致は大胆だ。
●ゴーガンの木版画!
木版もやってたんだなぁ。でかいトカゲがいる。ゴーガンの木版画はこちらも含め3点展示されていた。
●モーリス・ドニ!
ナビ派の一員だったドニ。1920年代にはもうこのグループは存在していなかっただろう。しかしこちらの作品は、なおもナビ派の精神を引き継いでいるように見える。モチーフの平面的な構成はタブローに秩序をもたらしているほか、フォーヴィスムやキュビスムとはまた違った趣がある。波やレンガの表現がとても美しい。
●ピカソ!
ピカソが描いていたロウソクの灯りがビカビカしている静物画、力強くてめちゃくちゃ好きだ。鮮やかな緑も美しい。京都国立近代美術館のコレクション展でも似た雰囲気の作品を観た。
●モネ!
めちゃくちゃ美しい……。柔らかな色彩、卓越した写実の技巧。空の濃淡や浮かぶ雲、水に反射した風景はいま額縁で切り取ってきたかのよう。
●ユトリロ!
なんだかんだユトリロってあまり観た記憶ないな。遠近感や造形のずれが独特な雰囲気を醸し出している。
●雪岱!
雪岱の作品ははじめて観たかも。細かい! 柳の葉の描写が非常に繊細だ。畳の間にぽつんと置かれた和楽器からはわびさびを感じる。今回は緑色が印象的な絵画に惹かれているな。
さいきんのたまもの
こちらはここ数年で新たにコレクションへと加わった作品たちだそう。
●寂しげな建造物
画家は団地を好んで描いていたらしい。集合住宅であろう建造物は、黒々とした空間にぽつんと佇んでいる。そこにはなにひとつとして明かりはない。役者たちが眠りについた静寂の夜にも、無機質な世界はなお息づいてるのだと感じさせてくれる。
●瑛九の「フォト・デッサン」
瑛九の「フォト・デッサン」は、「シュルレアリスムと日本」でも観ることができた。(以下の記事では触れていない) 光と影が織りなす物語は、はじめて通る小径のような非現実感を伴っている。ここでは計10点のフォト・デッサンが展示されていた。
●出刃包丁!
英題が《Flower and Knife(HANA to DEVA)》になっていてとてもいいな。モデルは作者自身。写真の横には壁から突き出た出刃包丁がある。ちょうど人の目線の高さ、目の間隔くらいのところにふたつの切っ先がありそうだ。ガラス張りで近づけなくなっているとはいえちょっと怖い。
屋外彫刻
MOMASコレクションの展示室から屋外に出ると、いくつかの彫刻を鑑賞できる。こちらは「館外・北浦和公園の芸術作品>美術館敷地内」にて後述する。
─MOMASコレクションおわり─
●コレクション展を観たあとに売店へ
図録と4枚のポストカードを購入。図録を買ったらおまけに企画展のポスターをもらった。
館内・展示室外の芸術作品
座れる椅子
展示室外にも美術館所蔵の椅子が置いてあり、自由に触れたり座ったりすることができる。(ちなみに「アブソリュート・チェアーズ」や「MOMASコレクション」の展示室内にもコレクションの座れる椅子があった。) ここで取り上げる3点は、1階の吹き抜けまわりに配置されていたものである。
●座り心地良……
ながーいソファといった見た目。クッション性はとても素晴らしく、ずっと座っていたら寝てしまいそう。
●おいしそう
こんなポップなデザイン椅子が、1956年には生まれていたというのだから驚きだ。意外と座り心地は良い。
●折り目が入っているかのようなデザイン
折り紙のような椅子。《Tsuru(Crane) - B 》と英語表記されているため、どうやらこれは鶴をモチーフにしているようだ。角があたって痛いということはなく、とても良い座り心地。……さっきから座り心地は良いとしか言っていないが、わざわざケチをつけるところなんてない素晴らしいコレクションだ。
なお、「今日みられる椅子」「今日座れる椅子」は館内に掲示されている。こんなにあったんだ……。
地下1階にある彫刻
あの《樹状細胞》が吊り下げられていた吹き抜けの底面。地下1階にある空間には、3点の彫刻が置かれている。ヴェナンツォ・クロチェッティ《マグダラのマリア》(1973-76)、ジャコモ・マンズー《枢機卿》(1979)、船越保武《ダミアン神父像》(1975)である。ここでは船越の作品を紹介したい。
ダミアン神父(1840-1889)はハワイでハンセン病患者に献身し、みずからもハンセン病に倒れた人物らしい。顔や手には病気による結節が表現されている。この像があるおかげで、ハンセン病の偏見と迫害の歴史を思い出すことができる。
館外・北浦和公園の芸術作品
ここからは北浦和公園内にて鑑賞できる芸術作品をいくつか掲載する。この日はあいにくの雨だったが、晴れていればきっと子どもたちの遊ぶ声が聞こてくることだろう。そんな広くて楽しげな公園だ。彫刻たちは風景と同化している。
↓屋外彫刻のリストはこちら
美術館敷地内
館外からも見えるが、「MOMASコレクション」の展示室から外へ出ないと近づけない作品たち。
●いまにも動き出しそうだ
外階段に設置された彫刻。平凡な日常をそのまま停止させたような静謐さと、いまにも動き出しそうな生々しさとが共存している。
●おもしろい!
まるで球体によって抉られたかのようだ。ここでは彫刻より球状の空間が主役に見える。
館外・北浦和公園
美術館外にあるだれでも鑑賞できる彫刻、オブジェたち。
●くねくね
相当ストレスを受けたんだろうなぁ。胃腸をこんな穴ぼこだらけにして……。
●ハーモニカみたい
ブランクーシ展で観た鳥が主題の作品たち。そちらの記事でも似たようなことを書いたのだが、垂直のシルエットは上方への運動を表現しているように感じる。しかしブランクーシの彫刻とは違い、こちらから読み取れるのはゆっくりと生じる屹立だ。
●クレーン?
「彫刻広場」にある、近代的なクレーンが取り付けられた台車。動かすこともできるのかな? しかしクレーンの先には何もついていなく、動かせたとしても空を切ることしかできない。
●中銀カプセルタワービル(1972)のカプセルだ!
こちらも彫刻広場にあった。黒川紀章による代表的な建造物、中銀カプセルタワービル。2022年に解体されてしまったが、ここにあるのはそのプロトタイプとして作られたものらしい。解体前に見ることは叶わなかったため、こういうかたちであれ対面できてうれしい。
おわりに
想像していたよりもずっとずっと楽しい展覧会だった。たかが椅子、されど椅子。あまりにも生活と結びつきすぎていて、その存在を意識することすらなかったが、今回はいろいろな物語を知ることができたように感じる。椅子をテーマに絵画、映像、写真、インスタレーションなど多岐に渡る芸術作品が一堂に会した、この展覧会のキュレーションは素晴らしいものだった。母も満喫できたようである。
そして埼玉県立近代美術館と北浦和公園はとても良いところだ。コレクションのデザイン椅子をまた観に行こう。そして今度は晴れた日に彫刻を見ながら、公園でゆっくりと過ごしてみたい。
「アブソリュート・チェアーズ」は愛知県美術館へと巡回する。椅子なるものについて再考するまたとない機会となるはずだ。それではここまでおつき合いいただき、誠にありがとうございました。
参考文献
●『アブソリュート・チェアーズ 現代美術のなかの椅子なるもの』、埼玉県立近代美術館・愛知県美術館編、平凡社、2024年
●『近代の美術 56号 キュビスム』、八重樫春樹編、至文堂、1980年