「ビッグオーとの出会い」にみる発想の転換
「ビッグオーとの出会い」との出会い
昔、店頭で”The missing piece meets the Big O”という絵本(洋書)を見かけました。素朴な絵の表紙に興味をもって立ち読みしたところ、すっかり引き込まれてしまい、感動して不覚にも店頭で泣いてしまいました。
その後、倉橋由美子さんの翻訳による日本語版が出版されました。「ビッグオーとの出会い」という和名で読んだ方も多いでしょう。さらに近年では、あの村上春樹さんも「はぐれくん、おおきなマルにであう」のタイトルで新たに訳されていて驚きました。
おそらく本でも映画でも、初めて見たバージョンを一番好きになるのが鉄則だと思います。私も、初めて読んだ英語の原書が一番好きです。
シェル・シルヴァスタインの「ぼくを探しに(The missing piece)」の続編です。私は後から読んだのですが、こちらの方にはあまり惹かれませんでした。
どんな内容なのか
最近はYouTubeで動画版が見られます。英語が読めなくても、動画を見るだけでもだいたい内容が伝わるのではないでしょうか。
私の解釈による概要は以下の通りです。ここでは倉橋さんの訳語に合わせ、missing pieceはかけら、Big Oはビッグオーと書きます。
かけら(ホールケーキのひと切れのような形の生き物)がじっと座って何かを待っている。自分は全体の一部であり、残りの部分にうまくはまってこそ、回ってどこへでも行けるようになる、と思っている。だからぴったりな相手が来るのを待っているわけだ。
かけらはいろんな形の生き物と出会う。会うたびに、これこそ自分がぴったりはまって一緒に生きていく相手では?と思うが、それぞれ難点があってうまくいかない。
かけらもいろいろ学習する。ハングリー過ぎるやつから身を守る法を覚えたり、少し魅力的に見えるようにおしゃれしてみたりする。しまいには"★Here it is★→→"と派手な看板を下げてみるが、シャイなやつは逃げてしまう。それでも、派手な看板が功を奏して、ついにぴったりな相手がみつかる。完全なマルとなって空を飛ぶように進む幸せそうなかけら。
ところがなんと、かけらだけ成長を始めてしまうのだ!ぴったりはまっていたのにだんだんずれてきて、はみ出てしまう。相方も残念そう。「まさか大きくなるとは…」と言って去ってしまう。
またひとりになってため息をつくかけらのところに、見たことのない完全なマルが現れる。ビッグオーと名乗り、はまって一緒に回る相手を自分は別に求めてないという。かけらは、自分は角のある形をしているから相方をみつけないと移動できないと言って残念がる。けれどもビッグオーは「大丈夫、ひとりで回って行けるよ、試してごらん。」と言ってまた去ってしまう。
かけらは長いこと座って考えている。そしておもむろに動き出す。初めはうまく行かないが、繰り返すうちにだんだん角が丸くなり、小さなマルとなって、弾むように先に進めるようになる!
小さいけれども完全なマルとなったかけらは、少し先を行っているビッグオーに追いつく。
動画の最後の"Peace"は原書にはなく、動画を作成した方のオリジナルなのでしょうか(pieceに掛けている)。ひとりひとりが自分自身で回って行ける努力をすることが平和につながる、というメッセージなのかと思います。
発想の転換とトポロジー
昔は女性の自立を描いている、などとも言われていましたが、それより私が気に入っているのは発想を転換するところです。
かけらは、自分は全体の中の一部であるという認識で、普遍的にこの形だと思い込んでいます。たしかに、ケーキのひと切れみたいな形なので読者も同じ思い込みをして、だまされてしまいます。でもこれはファンタジーなのだから、かけらはどんな変形をしようと自由なのです。変化していいのです。
かけらとビッグオーは、トポロジカルには同じ形です。トポロジカルというのは、物体を切ったり貼ったりせずに、伸ばす・曲げるなどの連続的な変化だけで変形することを言います。これでいくと、かけらはドーナツの形にはなれませんがビッグオーにはなれるわけです。それまでのどこかに埋まるという発想を止めて、トポロジカルに変換してみた、というところが鮮やかというか、私が感動したゆえんです。
ところで、私はこの絵本の絵柄が好きで、特にかけらが何か不満がある時に口をクイッと上げるところがたまらなく可愛くて好きです。