【武器になる読書】しなやかな智慧を身につける
富者にも貧者にも、世界中の遍く全ての人に平等に与えられたものがあります。それは「時間」です。
どれほど富を築いた人であっても、どれほど貧しい人であっても、一日に与えられる時間は24時間であり、その使い方を決めるのは平等です。
しかし、「時間」という概念自体は平等に与えられたものであっても、その使い方における平等は社会的な状況によって大きく左右されます。たとえば、インドの低所得農民、アメリカのシングルマザー、中国の工場労働者、アフリカの若年労働者、日本の過労死危機にあるビジネスパーソン、このような方々が「時間をどう使うかは平等に決めることができるか」と言えば、その限りではないかもしれません。
ですが、私のnote記事を読んでくださる方々を想定すれば、おそらく高い確率で私と同じような一般のビジネスパーソンでいらっしゃると思いますので、私はそういった皆さんへ向けて、「最も高い費用対効果を得られる時間資本の投資先について」お伝えします。
その投資先とは?
時間という資本を投資するのに最も費用対効果が高いのは「教育」です。教育を通じて知識やスキルを身に付けることは、長期的に見て個人の可能性を広げ、キャリアの発展や生活の質の向上につながるからです。
しかしながら、自分にとって最適な教育者との出会いは至難の業です。最適な教育者からの「指南の技」を得るのには、途方もない「至難の業」が待ち受けている、というわけです。
そのため、最適な教育者を見つけることの至難さを勘案すると、その結論は「独学としての読書」が最も費用対効果の高い投資ということになります。
読書は自分のペースで進められ、多様な知識や視点を得ることができ、時間の有効活用手段として非常に優れています。
また、「読書を通じて得られる知識や洞察は、個人の成長やキャリアの向上に大いに役立つ」という点からも、時間の投資先として最も有益であると言えるでしょう。
したがって、本記事で訴えたい私からのメッセージとはつまり、
時間という資本の最も優れた投資先は、「読書」である
ということになります。
より正確に言えば、時間資本を「人的資本」や「社会関係資本」へ還元するということもとても重要なのですが、その点については以下の記事を是非ともご一読ください。とても勉強になると思います。
さて、「人的資本」や「社会関係資本」に還元するためには、「知的戦闘力」が必須です。そのためには「インテリジェンス」を高めることが避けて通れません。つまり、必要な情報を効率的に収集し、不要な情報を排除する能力が重要です。情報過多の現代において、自分にとって価値のある情報を見極め、それに集中することが成功の鍵と言っても過言ではありません。
したがって「入れない情報」を決める、というスキルを磨くことも、時間資本を有効に活用するためには重要です。これにより、情報の取捨選択が可能となり、本当に価値のある知識やスキルの習得に集中することができます。
この「入れない情報」を決めることについては?ええ、以下をお読みください。(他力本願すぎるでしょうか?)
先出しした結論を補強する意味であらためて述べれば、時間資本を最大限に活用するためには、「独学のための読書」が最も重要です。だからこそ、情報選別のスキルを高めることが不可欠です。適切な情報を選び、効率的に学ぶことで、知識やスキルを効果的に身に付けることができ、これが「個人の成長と成功への最短ルート」となるのです。
つまり「独学のための読書」を通じて、情報選別のスキルを磨き、その結果さらに効果的な読書ができるという好循環を生み出すことが重要なのです。
「読書への投資」は避けることはできない、避けていては決して良質なリターンは得られないと断言します。皆さんには本記事を「私と一緒に学ぶ契機」としていただければ、これほど嬉しいことはありません。
『独学の技法』から、おもいっきり書きます
さて、副業や転職が当たり前になった現代において、私たちビジネスパーソンが「独学のための読書」を直接的に活用するシーンをイメージしてみると、多くの方は以下の二点を思い浮かべるのではないでしょうか。
1.テクニカルスキルの強化:テクニカルスキルとは、その会社や職種で身に付ける専門的なスキルを指します。これは基本的にはその会社でしか通用しません。コンサルタントであれば全員が経営書の古典を読まれていらっしゃるでしょうし、広告関連のお仕事に就かれている方であれば、全員がマーケティングの古典を読まれていらっしゃるでしょう。一先ず出世レースのための「独学のための読書」と考えてみれば、わかりやすいと思います。
2.キャリアポータビリティの向上:「独学のための読書」は、上記したテクニカルスキルを強化するだけでなく、人生の選択肢も広げます。他社へ行っても通用する汎用的なスキルと知識を提供してくれるからです。つまり「キャリアポータビリティスキル」を身につける手段です。このスキルは、異なる職場でも通用する汎用的な能力を提供し、個人のキャリアの選択肢を広げ、より多くの機会を創出します。
ひと昔前の昭和や平成の世であれば上記二点の理解でも良かったかもしれませんが、現代において、これでは時代遅れも甚だしい。
ここで、もう一つだけ記事リンクをご紹介します。それが以下です。
リンク先(というより私の手元にある書籍)から、エッセンスのほんの一部を抜き出して、上記した二点では決して足りない理由を三点述べます。
まずは、学校やビジネススクールで学んだ知識が、どんどん時代遅れの不良資産化しているという指摘です。それはそうですよね?これだけ情報がオープンになったわけですから、高いお金を払ってまで有名大学を目指す価値も目減りしています。学ぼうと思えばいつまでも良質な知識を、それも低価格で学び続けることが可能です。そういうわけですから「独学する人としない人」の間に生まれる「知的格差」がそのまま「経済的格差」につながる、こういった可能性が高まることは、容易に想像できると思います。
今から2年前の2022年、京セラやシャープなどの主要なガラケー製造メーカーが生産を終了したことで、かつて3兆円から4兆円もあったとされる巨大なガラケー産業は、日本から「消滅」してしまいました。ここで仮に「ガラケービジネス一筋ン十年」として頑張ってきたベテラン社員は、その後どうなったのでしょうか?皆さんは、希望の職種に就けたと思われますか?
これは上記の産業消滅にも言えることですが、日経ビジネスが帝国データバンクと共同で行った調査によれば、「旬の企業」が10年後にもその旬を維持できるかと言えば、そのうち半数しか残れないということがわかったそうです。これが20年後になると、たったの10%程度しか残れないそうです。ベストセラー『LIFE SHIFT』が示した通り、これから「人生100年時代」がやってくると考えれば、定年を迎える年齢は確実に伸びます。出生数も減っていく日本ですから当然のことですね?ということは、働く年齢も伸びることになるわけで、「学ばない人」が選べる仕事は、かなり少ないかもしれません。
このように、たったの三点ではありますが、これはなかなか「学ばない」ことのヤバさがわかる指摘だと思うんですよね。
ということで、「独学しないとやばいかもお・・・読書しよう」と、気づいてくださった皆さんへ、これからお薦めする独学分野のジャンルを11個、その理由と、さらに参考図書とを合わせて解説させていただきます。
「11個は多いよっ!」と思わないで大丈夫です。皆さん自身が「ツマミやすい」ジャンルから始めていけば、それでOKです。少しづつ、中長期的に学ぶことが前提ですから。決して焦らず、私と一緒に血肉にしていきましょう。
知的戦闘力を向上させる、11の独学ジャンル
1. 歴史
2. 経済学
3. 哲学
4. 経営学
5. 心理学
6. 音楽
7. 農家学
8. 文学
9. 詩
10. 宗教
11. 自然科学
ということで、早速これらのジャンルについて、個別に学び方や学ぶ意味について述べたいと思いますが、まずその前に、一般的に「リベラルアーツ」という学問領域で括られるジャンルを学ぶことの「5つの意味」について、結論だけ挙げましょう。
1. イノベーションを起こす武器になる
2. キャリアを守る武器になる
3. コミュニケーションの武器となる
4. 領域横断の武器となる
5. 世界を変える武器となる
皆さんは、「どうせ買うなら長持ちする武器を買いたい」というふうには思われないでしょうか?
せっかく「独学のための読書」をするのであれば、「すぐに習得できる代わりに、ビジネスにおいてゴミほどにも役立たない雑学程度のテクニック」を知るよりも、「多少時間がかかっても、良質(人的、金融的、社会関係的)なリターンを長く得られるようなスキル」を身につけたくはないですか?
経営学をはじめとした世知辛い学問の多くが、せいぜい数十年の歴史しかないのに対して、リベラルアーツはすでに数百年、科目によっては数千年という膨大な時間のヤスリにかけられて、今もなお残り続けています。
誰でも武器を買うときは、丈夫で長持ちするものにしたいと思うでしょう。 そういう意味で、リベラルアーツというのは、最も長く使うことができる「知の武器」だと言えます。
これまでの人生において、あまり慣れ親しむ機会がなかった人にも、今後はぜひ積極的にリベラルアーツに親しみ、そこから矛盾に満ちた世界を変えるための武器を手に入れてほしいというのが私の願いです。
1.歴史
人類の螺旋状の発展から、未来を予測する力を身につける
ーーー歴史は発展しつつ、再び原点に回帰する
現代社会を生き抜いていこうとするビジネスパーソンにとって、歴史を学ぶことの意味とは一体何なのでしょうか?
人によっていろいろな答えがあると思いますが、ここでは二つの点を指摘したいと思います。
一つ目は、「目の前で起きていることを正確に理解することができる」ということです。なぜそう言えるかというと、これからの世の中で起きていることのほとんどは、過去の歴史の中で起きているからです。
もちろん、起きていることを表面的に捉えれば、現在の私たちが向き合っている世界はこれまでなかったものです。しかし、それを内部で動いているメカニズムにまで踏み込んで考察してみれば、ほとんどの事象について、同様のメカニズムが働いていた歴史的事件があったはずです。
二つ目は、「未来を予測する能力が高まる」ということです。なぜ、歴史を学ぶことで未来を予測する能力が高まるのか?ここで鍵になってくるのが「弁証法」です。
弁証法とは、ある命題Aが提示された後、それを反証する命題Bが提示され、双方の圧力を調停する形で新しい命題Cが提示されるという動的な思考のプロセスを示す哲学用語です。
では、歴史と弁証法にはどのような関係があるのか。
歴史は弁証法的に発展していく、と指摘したのは哲学者のヘーゲルでした。 ヘーゲルによれば、歴史は、最初に提示された命題Aが、次に命題Bによって否定され、最終的にそれを統合するかたちで、命題Cに落ち着くことで発展してきました。
このとき、歴史は「らせん状」に発展します。らせん状に発展するというのはつまり、「回転と発展が同時に起こる」ということです。発展しつつ、原点に回帰する。これが弁証法の考え方です。
具体的な例を出して考えてみましょう。例えば教育システムがそうです。現代の日本では、同じ年齢の子どもたちが同じ学年に所属し、時間割りごとに同じ教化を学ぶという仕組みが採用されています。
小学校から高校までの12年間を、基本的にこの仕組みで過ごしてきた私たちにとっては、これ以外の教育システムなど考えられないと思いがちですが、 実はこのような仕組みは、過去において長らく実施されてきた教育システムとは大きく異なるのです。
例えばかつての寺小屋は、年齢のバラバラな子どもたちが一箇所に集まり、それぞれが個別に勉強をしながら、教師が勉強を支援するという仕組みが長らく続いていました。現在の私たちから見れば、奇異に映るかもしれませんが、歴史的にはこうした教育システムの方がずっと長く続いていたわけです。
さて、それでは今後の教育システムはどうなっていくのでしょうか?おそらく、かつての寺小屋のような形態に再び戻っていくのだろうと私は考えています。実際、学力世界一を誇るフィンランドの義務教育の仕組みは、既にこのような「寺小屋型」スタイルになりつつあります。
また、世界中で利用者が急増しているウェブ上の学校である「カーンアカデミー」もまた、そのような取り組みとして整理することができます。カーンアカデミーを積極的に取り入れている学校では、これまでのように「学校で授業を受けて、家庭で補助的な学習をする」という関係性が逆転し、「授業は家庭でカーンアカデミーを視聴し、どうしてもわからないところは学校で先生に教えてもらう」という構造になっています。
当然のことながら、このような仕組みを採用すれば、学校ではそれぞれの子どもが、それぞれの苦手なところを先生に支援してもらいながら学習することになるわけです。
さて、このような教育システムの変遷を弁証法の枠組みで整理するとどうなるでしょうか?まず、中世から近代にかけての日本で採用されていた「寺子屋型」の教育システムが、テーゼ=命題Aとなります。ところがこの仕組みは、明治政府の富国強兵政策に伴う国民皆教育の方針にはフィットしていません。効率が悪いからです。大量の生徒を集めて学習させるためには、工場のように教育を一律化してしまう方がいい。
そのためには戸籍に基づいて、ある年齢になったら画一的に同じ内容を教えるという仕組みが必要です。これは最初の教育システムに対する反論として アンチテーゼ=命題Bとなります。
そして、現在世界中で起こっている教育革命は、再び「個別生徒の関心・進捗に合わせて、先生が教室で支援しながら学習を進める」という形態に回帰しつつあるわけですが、ここで注意しなければならないのは、この回帰が単なる「原点回帰」ではなく、デジタルの力を活用した「発展的原点回帰」だということです。テーゼが提示され、それに対するアンチテーゼが提示された後、両者の争点を包含する新しい命題=ジンテーゼが提案されたわけです。
以前の寺子屋型教育システムでは、どうしても効率性という点で問題がありました。現在、世界中で行われている新しい教育システムは、個人個人の進捗度合いや関心に応じた教育のきめ細やかさと、全体としての効率を両立するような仕組みとして提示されているわけです。
ここで「歴史を知っている」というのが重要なポイントになってきます。なぜかというと、歴史が弁証法的に「発展的原点回帰」を繰り返して進展していくというとき、歴史を知らなければ、どのような「原点」へと回帰していくのかが全くわからないから、予測できないのです。
らせん状に「発展的原点回帰」を繰り返しながら変化していく社会において、どのような「原点」が復活してくるのかを予測できるようになる
これが、歴史を学ぶことのとても大きな意味と言えます。
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2.経済学
競争に勝ち続けるためにマーケットの原理を知る
ーーー市場がビジネスというゲームのルールを規定している
経済学を学ぶ意味について、世の中一般でよく言われるのは「社会人としての常識だから」とか「世の中の仕組みが理解できるから」とかいったことですが、私自身はそうした教養としての経済学の知識についてその有用性を否定はしないものの、副次的なものでしかないと感じています。
ことビジネスパーソンが「知的戦闘力を上げる」という目的に照らして、経済学を学ぶことの意味を考えてみれば、そこには大きく二つのポイントがあります。
一つは、「経済学」が研究対象とする「経済」や「市場」が、ビジネスというゲームの基本ルールを規定しているということです。
ビジネスには当然ながら競争という側面があるわけですが、ではその競争のルールは誰が規定しているのかと思いますか?
公正取引委員会?
それは不当な競争をするプレイヤーを摘発するのが仕事で、別にルールを規定しているわけではないですよね。
実はビジネスにおける競争のルールを規定しているのは「市場」なんです。
市場という、人間が生み出したものが、人間とは別に勝手にルールを生み出してしまう。そしてこのルールに人間は縛られるわけです。これをマルクスは「疎外」と呼びました。疎外という言葉は聞いたことがあると思いますが 、別にそんなに複雑な概念ではありません。人が作ったものが、作り主である人から離れて、よそよそしくなってしまうことです。
したがって、市場がどのように振る舞うかを知ることが、ビジネスのルールを理解する上では大変重要だということになるわけですが、この「市場の振る舞い」を研究しているのが「経済学」という学問なんです。こう考えるとビジネスパーソンが経済学を学ぶ意味がよく分かるでしょう。
ハーバード大学にマイケル・ポーターという先生がいます。この人は『競争の戦略』という、競争戦略の定番テキストを書いたことで大変有名ですが、この『競争の戦略』という本は、基本的に経済学の、それも産業組織論の枠組みを用いて書かれています。
マイケル・ポーターという人は、元々経済学で博士号を取っています。経営戦略の大家なので経営学の博士だと思っている人が多いと思いますが、そうではないのです。
経済学では厚生の最大化を目指します。簡単に言えば、市場に健全な競争が行われて、誰もが良いものを安く買えるような社会を「良い社会」と考え、これを阻害する要因を排除することを考えます。
つまり、どのようにすれば一社が独占的に市場を支配し、新陳代謝が起こらないような状況を避けられるかということを考えるわけです。しかしこれをひっくり返してみて、市場に参加しているプレーヤーの側から考えてみるとどうなるのか。
一社が独占的に市場を支配し、新陳代謝が起こらないような状況というのは、 まさしく理想的な状況なわけです。
つまりポーターという人は、経済学でずっとやってきた研究を裏返しにして 、それをそのまま経営学の世界に持ち込んだ、ということなのです。
このような事実を知れば、いかに経済学を学ぶことが、ビジネスの世界における知的戦闘力の向上につながるかが分かってもらえると思います。
経済学を学ぶことの意味についての二つ目のポイントは「価値」という概念の本質について洞察を得られることです。この点をよくよく抑えておかないと、経済学を学んでも「経済学的知識」は増えこそすれ、「経済学的センス」は身につきません。もちろん、「知的戦闘力を向上させる」という点において重要なのは後者です。
具体例を出して考えてみましょう。例えば「モノの価値」はどのようにして決まるのか、という問題についてはいろいろな考え方があります。例えばマレクスは「モノの価値は、そのモノを生み出すためにかかった労働の量で決まる」と言いました。いわゆる「労働価値説」と呼ばれる考え方です。
これはこれで一つの考え方だとは思いますが、現在を生きている私たちの多くは、たくさんの手間がかかったからといって、必ずしも「価値の高いモノ」が生まれるわけではないことを知っています。
トヨタ自動車の生産性は世界一だと言われていますが、生産性が高いということは「手間がかかっていない」ということです。では手間がかかっていないトヨタの自動車が、他社と比較して価値が低いのかというと、まあそういうことにはならないわけですよね。
モノの価値について、現在の経済学では「それは需要と供給のバランスによって決まる」と考えます。同じモノであっても、供給が需要に追いつかない状況では、モノの価値は上昇し、需要以上に供給されれば、モノの価値は低下することになります。これは経済学を学んで人であれば誰もが知っている、 一種の経済学の定理のようなものです。
したがって、自分たちの売っているモノやサービスの価値を上げたければ 、需給バランスをコントロールする、という意識が大事だということです。
この「需給バランスによってモノの価値は決まる」ということを、実際に証明したのが、ダイヤモンドのカルテルです。
南アフリカでダイヤモンド鉱山の開発競争が熾烈化した20世紀の初頭、供給過剰に陥ったダイヤモンドの価格はほとんど下落して、「いずれは水晶と同じ値段になる」と言われた時期がありました。
このとき、供給過剰の状況を回避したのが、アーネスト・オッペンハイマーというユダヤ人の事業家でした。彼はロスチャイルド銀行の資金を後ろ盾にして、ダイヤモンド鉱山の採掘した原石を全量買い上げるという、ものすごいカルテルを構想したわけです。
時代は世界大恐慌の後ですから、販売に不安のないこの仕組みを鉱山側は歓迎し、結果的に南アフリカで採掘されるダイヤモンド原石は全てこのカルテルに提供されることになりました。
その上で市場に供給するダイヤモンドの量を意図的に絞ることで価格を釣り上げることに成功します。このカルテルが現在のデビアス社の前身だということを知れば、いかに「経済的センス」がビジネスの世界における知的戦闘力の向上につながるか、よくわかると思います。
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3.哲学
今のルールに疑問を感じ、自分の頭で考える力を鍛える
ーーー哲学には必ず大きな否定が含まれている
多くのビジネスパーソンにとって、哲学という学問は最も「縁遠い」ものに感じられると思います。しかし、実は一方で、欧州のエリート養成機関では、18世紀以来、哲学は歴史と並んで、最も重要視されてきた学問でもあります。
例えば、英国のエリートを多く排出しているオックスフォード大学では、長いこと哲学と歴史が必修でした。現在、エリート政治家・養成機関としてオックスフォードの看板学部となっているのは「PPE=哲学・政治・経済」です。
日本の大学システムに慣れ親しんだ人からすると、なぜに「哲学と政治と経済」が同じ学部で学ばれるのかと、奇異に思われるかもしれませんが、 これはむしろ「世界の非常識」である日本の大学システムしか知らないからこそ感じることで、哲学を学ぶ機会をほとんど与えずに、エリートを育成することはできない、それは「危険である」というのが特に欧州における考え方なのです。
例えば、フランスを見ても分かりやすい。フランスの教育制度の特徴としてしばしば言及されるのが、リセ(高等学校)最終学年における哲学教育と、バカロレア(大学入学資格試験)における哲学試験です。
文系・理系を問わず、すべての高校生が哲学を必修として学び、哲学試験はバカロレアの1日目の最初の科目として実施されます。バカロレアに合格する学生は、将来のフランスを背負って立つエリートとなることを期待されるわけですが、そのような試験において、文系・理系を問わず最重要の科目として「哲学する力」が必修の教養として位置づけられているわけです。
では、哲学を学ぶことにはどんな意味があるのでしょうか?
一言で言えば、それは「自分で考える力を鍛える」ということです。
この「考える」という言葉は、本当に気やすく使われる言葉なのですが、本当の意味で「考える」ということは、なまなかなことではありません。よく「一日中考えてみたんだけど・・・」などという人がいますが、とんでもないことで、こういう人がやっているのは「考える」のではなく、単に「悩んでいる」だけです。
これは拙著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』にも書いたことですが、現在、「この自分で考える力」は極めて重要な資源になりつつあります。なぜかというと、これまでに依拠してきた「外部の基準やモノサシ」が、どんどん時代遅れになっているからです。
知的戦闘力を高めるという文脈で考えてみた場合、与えられたルールやシステムを所有のものとして疑うことなく受け入れ、その枠組みの中でどうやって勝とうとするかを考える人よりも、与えられたルールやシステムそのものの是非を考え、そもそものルールを変えていこうとする人の方が、圧倒的に高い知的パフォーマンスを発揮するのは当たり前のことです。
もっとわかりやすく言えば、哲学というのは「疑いの技術」だとも言えます。哲学の歴史において、哲学者たちが向き合ってきた問いは基本的に二つしかありません。
それは、
1.この世界はどのようにして成り立っているのか?
2.その世界の中で私たちはどのようにして生きていくべきなのか?
という問いです。
そして、古代の中国、あるいはインド、あるいはギリシアからスタートした哲学の歴史は、連綿と続くこれら二つの問いに対する答えの提案と、その後の時代に続く哲学者からの、否定と代替案の提案によって成り立っています。
哲学の提案には必ず大きな「否定」が含まれていなければなりません。物理の法則と同じで、何か大きな「肯定」をするためには、何か大きな「否定」が必ずつきまとうのです。
つまり、世の中で主流となっているものの考え方や価値観について、 「本当にそうだろうか?」「違う考えもあるのではないだろうか?」と考えることが、「哲学する人」に求められる基本的態度だということになります。
さらに付け加えれば、この「本当にそうだろうか?」という批判的疑念の発端となる、微妙な違和感に自分で気づくこともまた、重要なコンピテンシーです。
昨今、世界中で瞑想を中心としたマインドフルネスに関する取り組みが盛んです。マインドフルネスと哲学というと、あまり結節点はないように思われるかもしれませんが、「自分の中に湧き上がる、微妙な違和感に気づくのが大事」という点で、両者は共通の根っこを持っているのです。
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4.経営学
思考プロセスを追体験しながらビジネスの共通言語を学ぶ
ーーー古典から考えるツボを皮膚感覚で学び取っていく
経営学を学ぶ意味について、ビジネスの現場で用いられている言語は基本的に経営学の用語ですから、これを学ばないと基本的なコミュニケーションすらできないということになります。
経営学に多大な期待をすることについては戒める必要がある一方で、経営学を学ぶことなく、現代の世界で高い知識戦闘力を発揮することは不可能だと思います。
世の中の言語が経営学の枠組みで用いられている以上、好むと好まざるとに関わらず、一定程度のリテラシーは必要だろう、ということです。
では、どのようにして経営学を独学すればいいのか?
基本は、定番中の定番をしっかりと押さえること。これに尽きます。
そして定番の書籍をしっかりと自分のものにした後は、自分の仕事と関連する領域だけをアップデートしていく、ということで十分だと思います。
後に挙げる「お薦め書籍」リストを見ていただければわかるように、そのほとんどは、いわゆる古典と言われるものです。経営学を独学するのであれば、必ず古典、原典に当たることが重要だと考えているわけですが、しかしこれが結構ヘビーなのです。
例えば、マイケル・ポーターの『競争優位の戦略』は600ページ以上ある大部で、読み切るにはかなりの時間が必要です。一方で、書店のビジネス書コーナーに行ってみれば、同書に関する解説書はたくさん出版されており、長い時間をかけなくてもエッセンスを学ぶことは可能に思われるかもしれません。
ここに経営学独習の落とし穴があります。
断言しますが、こういった簡易版の解説書をいくら読んでも、経営のリテラシーは高まりません。
理由は非常に単純で、古典・原点をじっくりと読み、そこに展開されている思考のプロセスを著者と同じように追体験することで「経営の考え方」「ビジネスを考えるツボ」を皮膚感覚で学び取っていくということにこそ意味があるからです。
簡易版や解説書というのは、この思考のプロセスを端折って、フレームワークやキーワードだけを解説しているわけで、そんな知識をいくら覚えても知的体力は向上しません。
逆に言えば、経営学を学ぶにあたって、次々に出されるビジネス書の新刊を読む必要はないということです。もちろん、今現在やっている仕事における実務上の要請から必要であれば、その限りではありません。
めったやたらに新刊のビジネス書、話題のビジネス書を読んでいる人がいますが、そんなことをするくらいなら、古典と言われる本をもう一度読み直すべきです。
すでに記述した通り、一度の読書を通じて読者が本から得られるものはそれほど多くはありません。特に名著・古典と言われている本であればあるほど、様々な角度での学びがあるものです。
こうした本は何度読んでも学びがあるので、次に挙げるリスト(+アルファ)を参考にしつつ、 「これは!」と思った本が見つかれば、ことあるごとにそれを読み直すべきでしょう。
経営学 お薦め書籍
『キャズム』ジェフリー・ムーア
5.心理学
人間がどう感じ、考え、行動するかという「不合理性」を知る
ーーー人間というシステムは全く合理的に振る舞わない
心理学を学ぶ意味について、皆さんはどう思いますか?交渉の時の駆け引きに有利。メンタル面のケアに大事。なるほど、そういうことももちろんあると思います。
しかし、ビジネスのあらゆる側面には最終的に「人」が関わることになるわけで、であれば、その「人」がどのように感じ、考え、行動するかを研究する学問である「心理学」が、ビジネスパーソンにとって大きな示唆を与えてくれるのは当然のことです。
ポイントになるのは、
「人間は合理的ではない」という点です。
ここが非常に重要。既に経済学を学ぶことの意味について触れましたが、経済学、中でも古典派経済学では、人間を「合理的な存在」として仮定します。平たい言い方をすれば、市場を構成するプレイヤーである個人は、経済的利得の最大化を目指して合理的に判断する存在として仮定するわけです。
経済学というのは市場というシステムの振る舞いを研究する学問だ、ということは既に述べましたね。このシステムの振る舞いを解き明かすために、システムの構成要素である人間がどのように意思決定するかをモデル化しているわけです。
ところが、ここに大きな問題があって、人間というのは全く合理的ではないのです。本来であれば合理的に振る舞うはずの人間が、多くの場合、不合理に振る舞ってしまう。この不合理な振る舞いをなぜするのかを解き明かそうとするのが「心理学」という学問だと言えます。
これがなぜ重要なのかわかりますか?
例えばマーケティングを考えてみた場合、市場に存在する消費者が全て合理的な存在であれば、費用対効果を勘案して最も優れた商品だけが生き残り、残りは全て淘汰されることになります。
ところが、実際にはどうかというと、人間は不合理なため、必ずしも費用対効果が最も高い商品が生き残るわけではない。では、どんな商品が生き残るのか?それは、人間の不合理な判断基準にフィットした商品だということになり、この人間の「不合理性」が、どのような性格を持っているのかを知ることが大事だということになります。
人間というシステムが合理的な振る舞いをするのであれば「心理学」という学問は必要ありません。なぜなら、予測ができるからです。利得の最大化だけが目的なのであれば、効用関数を書くことさえできれば振る舞いは完全に予測することができます。
ところがそうではない、必ずしも合理的ではない、いや明らかに損だということが分かっているようなこともやってしまうのが人間ですから、このような不可思議な人間の振る舞いを研究するのが心理学だということになります。
6.音楽
全体構想の良し悪しを直感的に判断できる力を高める
ーーー良い戦略は全体として美しい音楽のような調和を持っている
音楽を学ぶ意味については様々な論考が出されていますが、私自身の経験からこれを一言でまとめるとすれば、「全体を直感的に掴む能力を高める」ということになるかと思います。この力は、ロックやジャズでも高めることができると思いますが、ここでは最も効果が高いと思われるクラシック音楽を用いて説明します。
いわゆるクラシック音楽には様々な楽曲形式があります。一つの楽器で演奏する独奏、弦楽器4本で演奏する弦楽四重奏、もう少し規模の大きい室内楽などです。このうち、中でも最もメジャーな楽曲形式の一つに交響曲と言われるジャンルがあります。
交響曲は短いもので30分、長いもので1時間程度になります。つまり聴く側は、30分から1時間程度の音楽を聴きながら、そこに起承転結を読み取っているわけです。
このとき、その起承転結がいかにもスムーズ かつ意表をつくように運ばれているのが いわゆる名曲と呼ばれるものであり、その逆、つまりスムーズだけれども驚きがない、あるいは意表をつくけれどもギクシャクしているような曲は、駄作とされるわけです。
よほどのマニアでもない限り、現在の私たちが聴くのは、歴史のヤスリにかけられて残った名曲ばかりですから、このような名曲を聴くことで作曲家が構想した「横軸の全体」を、私たちもまた追体験することになります。
評論の神様と呼ばれた小林秀雄はモーツァルトに心酔し、その名も『モオツァルト』と題した随想を残しています。この随筆の中にモーツァルト自身がどのようにして曲を構想していたかについて、小林秀雄が考察を巡らす箇所があります。
モーツァルトの場合、全体の構想は「気づいたときにはそこにある」というくらいに、天から降って湧いたように出来上がっていたようですが、一方で、ベートーヴェンやブラームスの場合、何年ものあいだ推敲に推敲を重ねて、曲の構想を練り上げていました。
ベートーヴェンが使っていたというノートを見てみると、彼が様々な試行錯誤をしながら、楽想を練り上げていったことがわかります。ここら辺は、いかにも天才肌のモーツァルトと努力型のベートーヴェンの違いが現れていて興味深い点です。
実はベートーヴェンは、モーツァルトの弟子として勉強していた時期があったようなのですが、その時の思い出として、モーツァルトがトイレに入って、出てきたらトイレットペーパーにメロディが書かれていて、それが本当に素晴らしい。自分は必死になってメロディを生み出そうとしているのに、この人はうんこと一緒にメロディをひり出してしまうのかと思ってびっくりした、というような思い出を残しています。
そして彼らの音楽を聴き比べると、そのような「構想の仕方」の違いが、音楽に現れていることが感じられてとても面白い。
高水準の知的パフォーマンスを発揮した人物を並べてみると、セミプロ以上の水準で音楽を嗜んでいた人物が少なくありません。例えばモーツァルトを愛好し、どこに旅行に行くにも愛用のバイオリンを携えていたアインシュタインは有名ですし、ソニーの世界戦略を主導した大賀典雄氏は、そもそも本職のバリトン歌手から転身してソニーに入社しており、晩年はしばしばオーケストラの指揮もしていました。
あるいはマッキンゼーの元日本代表である大前研一氏はセミプロ級のクラリネットの使い手であったこともよく知られていますし、シンガーソングライターの小椋佳氏は、第一勧銀で幹部職を務めながら、早退届を出して武道館でコンサートをやっていました。
音楽に関する長期間にわたるトレーニングが脳に何らかの変化を及ぼし、その変化が知的生産にポジティブな影響を与えることは、さまざまな研究から明らかになっています。
この点について、以前に大前氏から受けたアドバイスが今でも心に残っています。大前氏は私に対して「良い戦略、良い事業プランというのは、全体として美しい音楽のような調和を持っている。要素や部分に分解して、良い悪いという問題ではない。全体構想としての調和、それが一番大事だ」というのです。
これはつまり交響曲を聴いて直感的に感じる「良い・悪い」というのと同じように、事業プランを判断するべきだと言っているわけです。このような「構想の良し悪しを判断する感受性」は、音楽以外に鍛える術がありません。
7.脳科学
人間がしばしば起こすエラーを正確に理解・予測する
ーーー人間の「不合理」さには一定のパターンがある
脳科学を学ぶ意味は、一言「人間を知る」ということに他なりません。本章ではすでに心理学を取り上げてこれを学ぶ意味についても考察していますが、脳科学を学ぶ意味も基本的には同じことです。すなわち、「ある局面において、人間がどのような振る舞いをするかを、正確に理解・予測できる」ということです。
心理学の項で述べたように、人間は必ずしも合理的に振る舞うわけではありません。端から見れば極めて不合理な振る舞いをしてしまうのが人間だということですが、これは非常に困ったことなんですね。
というのは、不合理な振る舞いというのは予測しにくいわけです。側から見ていて、この局面であれば、このように振る舞うだろうなという予測できるのは、その人が同じ効用関数を持っていて合理的に判断するからです。
わかりやすい例を挙げれば将棋がそうです。将棋の指し手は「王将を取る」という目標に向けて、その期待値がより高まるように手を打ちます。側から見ている人も同じゴールを共有しているからこそ、「次はこういう手を打つんじゃないか?」と予測できるわけです。
ところが、当のプレーヤーが不合理であれば、このような予測は大きく外れることになります。極端な話、わざと負けるように打とうとする指し手が、 次にどのような手を打つかは、「勝つ」という目的を持ってそれを見ている人には予測できません。
では、人間の不合理な振る舞いは予測できないのか?いや、これが実はそうでもなさそうだということが、最近の心理学・脳科学の研究結果からわかりつつあります。
心理学者のダニエル・カーネマンは、そのような不合理な人間の振る舞いについての研究から、ノーベル経済学賞を受賞しましたが、この研究で注目すべきなのは、人間はそれほど合理的ではないものの、その不合理さには一定のパターンがある、ということです。
人間というシステムは、しばしばエラーを起こし、不合理な演算を行うわけですが、その「エラーの出方」には一定のパターンがある、ということがわかってきたのです。
心理学や脳科学を学ぶというのは、人間というシステムがしばしば犯してしまうエラーについて、「エラーの出方」のパターンを学ぶということにほかなりません。
そして、知的戦闘力を向上させるということは、とりもなおさず次の二つの問い、すなわち、「いま、何が起きているのか?」「これから、何が起きるのか?」 という問いに対して、高い角度の答えを得る技術を高めるということなのです。
このように考えてみると、「人が、どのような場合に、 どのように合理的、あるいは不合理的に振る舞うのか」を研究する学問である脳科学が、大きな示唆を与えてくれるであろうことは、おわかりいただけると思います。
『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン
8.文学
「実のある嘘」から人間性を深く理解する
ーーー彼の地の社会や風俗・・・生きた人間を立ち上がらせる
文学を学ぶ意味について、二つの点を指摘したいと思います。
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