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オルテガ『大衆の反逆』要約③

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 第二章の表題は、「歴史的水準の上昇」となっている。何が上昇するのかといえば、「生の水準」が上がったのである。では内容を見ていこう。

ローマ帝国の歴史も、指導的少数者を取り込み、彼らを無力化し、その座にとって代わった大衆の謀反と支配の歴史である。その当時も、密集、充満の現象が生まれた。

『大衆の反逆』 岩波文庫 p.75

シュペングラーが見事に考察したように、あの時代も現代と同じく、巨大な建造物を作り上げなければならなかった。大衆の時代は巨大なるものを必要とする時代なのだ

同上 p.75

 なぜ大衆の時代には巨大なるものを必要とするのだろうか。おそらく、権威を必要とするからだろう。巨大な建造物は権威、力の象徴だ。自分がその下に首を垂れることができる権威、そういうものが大衆の時代には(その性質からして必然的に)求められるのではないだろうか。そう考えるとすべての時代が「大衆の時代」と呼べなくもない気もするが、いったん置いておく。

 ところで上の引用の注にはこのように書いてある。

その過程で悲劇的だったのは、これらの密集が行われる一方、地方の人口減少が始まったことで、これが帝国の人口に決定的な減少をもたらさざるを得なかったことである。

p.387

 これだけ見ても、この現象が現代日本にとって他人事ではないことがわかるだろう。


 オルテガは、人間社会と貴族主義(詳細は後述)の関係についてこう述べる。

つまり、人間社会は常に、好むと好まざるとにかかわらず、本質そのものからして、貴族主義的であればあるほど社会的たりえ、非貴族主義的であればあるほど社会的たりえない、そう言えるほどに貴族主義的であると言ってきたのだ。

p.76

 「この確信は日を追ってますます強くなっている」とオルテガはこのことを強調する。では、「貴族主義的であればあるほど社会的」とはどういうことなのだろうか。

 まず、ここで言われている「社会」とは、「国家」のことではない。社会というのは曖昧な言葉だが、ひとまずは「共同体(的なあり方)」というような意味だと思う。

 「貴族主義的であればあるほど社会的」ということは、逆に言えば「非貴族的(≒大衆的)であるほど個人的」ということになる。要は自分のことしか考えていなければ大衆的ということだ。

 また、この「貴族主義的」というのは、社会的立場としての(いわゆる)貴族のことを指しているわけではない。それは次の文章にあらわれている。

ここでいう社会的貴族というのは、自分たちの社会を「上流社会(社交界)」と自称して、「社会」という名称をそっくりそのまま独占しようとしたり、招待されたりされなかったりで無為な日を送る、ごく限られた数のグループとは似ても似つかぬものである。

p.77

 オルテガは具体的に「貴族的」ということを定義せず、否定的にこの概念を示している。たぶん、「大衆」「貴族」などの概念は積極的にその内容を指し示すのが難しいのだろう。うっかり内容を固定化させず、しかし好き勝手概念を振り回せないようにする必要があるのだと思う。


 そしてまた、このような「上流社会」においても大衆の精神が席巻し始めていることを指摘する。

私には招待客が八百人を下回るような舞踏会など、とても我慢できませんわ」。(←或る貴婦人の言葉)
私にはこの言葉の背後に、今日、大衆の様式が生のあらゆる領域の上に勝利を収め、幸福な少数者のためにとっておかれた最後の片隅においてさえ力を揮っているのが見えたのだ。

p.78

 舞踏会の人数を気にするというのは貴族として普通なことな気もするが、オルテガに言わせればこういう思考様式こそ大衆的なものなのだ。しかしこれは感覚的にわかるところがあると思う。たとえばSNSのフォロワー数について気にしたりすると――いかにも大衆的な感じがするのではないか。「人気(ポピュラー)」ということが、大衆概念と深く結びついているように思う。


 オルテガは、「解剖に付さなければならぬ事実」として二つのことを挙げている。

 一つ目は、「大衆は今日、かつては少数者にだけ取っておかれていたはずの生の活動範囲の、大部分を占拠しているということ
 二つ目は、「同時に大衆は、少数者に対して不従順になったこと、つまり少数者の言うことを聞かず、後に従わず、尊敬もせず、むしろその反対に、彼らを押しのけ、その座を代わっているということ」である。

 一つ目に関する例として、1820年のパリには浴室をもった個人の家は十軒しかなかったが、今では(『大衆の反逆』が公開されたのは1929年)多くの家庭に浴室があるということをあげている。

 また、物質的技術だけでなく、法的社会的技術にも同じことが当てはまるという。たとえば人権思想、民主主義思想などである。初めにこれらのことを主張したのは、わずかな数の人たちであり、つまり知識人階級とか、そういう類の人々であった。しかし、その思想内容からして当然ながら、次第に大衆にもこの思想が広まっていく。

大衆はこれらの権利の思想をあたかも一つの理想とみなして次第に熱中していったが、それらを自らのうちに感じていたわけでも、行使することも効力を発揮させたわけでもない
実のところは、デモクラシ―の体制下で相も変らぬ生き方、旧体制下と同じような意識を持ち続けていたのだ。

p.80

 鋭い文章だが、とくに日本にはこのことが当てはまるかもしれない。なぜなら日本の「人権思想」「民主主義」は欧米から学んだ(与えられた)ものだからだ。これらのことは、丸山真男が「「である」ことと「する」こと」で言ってることとも関連するだろう。

 このことの問題についてオルテガはこう語っている。

気を付けていただきたいのは、かつては理想であったものが現実の要素となったときには、もはや皮肉なことに理想ではないということなのである。
(中略)
あの寛大で民主主義的な霊感から発した平等への権利は、熱望や理想ではなくなり、欲求や無意識の前提へと変化してしまった。

p.81

 ざっくり言いかえれば、民主主義という理想は衆愚政治になってしまったということだろう。この二つを区別するのは難しい。が、思うに、民主主義の本懐はこれを追い求めるプロセス、理想へと向かう動性にあるのであって、これが静的な現実になると一般に「衆愚政治」と呼ばれるものになってしまうのではないか

 というわけで、「いまや平均人の生が、かつては衆に抜きんでた少数者だけの特徴だった生の活動範囲によって構成されている(p.82)」のである。

 ところで、平均人はある種、地面や海面のような役割を演じているとオルテガは言う。なんだか炎上しそうだし、若干疑わしいところもあるが、一理あるのは確かだろう。で、そうだとすると、この地面(海面)が一気に上昇したということ、これが歴史的水準の上昇という事態である。

言うなれば、現代の一兵卒はいかにも隊長然としている。つまり人類という軍隊は、もはや隊長ばかりで構成されている。
(中略)要するに、現在そして近未来のあらゆる善とあらゆる悪は、その原因と根源をこの歴史的水準の総体的上昇のうちに持っているのだ。

p.83

 
 ナチスドイツが勢力を伸ばしたのは、まさに典型的な大衆の支持によってであった。

 この後オルテガは、シュペングラーの『西洋の没落』という考え方を批判する。少なくとも生命力という観点では、その水準は世界的には平均化され、ヨーロッパにおいては上昇していると言う。

 これは果たして良いことなのだろうか? 



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