振り子,再始動
醤油の食レポをしようと決めてからだいぶ時間が経った。
なぜこんなにかかってしまったのかというと話は簡単である。
気力がなかったのだ。
最後にnote記事をあげてからだいぶ時間が経っている。
数週間,いやひと月ほど,自分はライターモードをお休みしていた。
2019年になって半月以上が経ったわけであるが何一つ行動を起こせなかった感じがある。というよりは自分がどうなりたいのかがきちんと見えてこなかった。
ただ自分が苦手なもの,得意なものは徐々に見えていた気がする。
例えば自分は人に好かれるのが大の苦手だ。相手がどのようなものを好むのか,相手に好かれるメリットを見いだせないからなのだが。また好かれたところで重い仕事を引き受ける羽目になる等ろくな目にあったためしがないので人に好かれなくても生きていける方法が欲しいと願うようになったのだ。
また,人と接するのもそこまで好きでない。画面を相手に調べものをしたり,勉強したりする方がまだ性にあっている。
動画を見たり本を読んだり,このようにものを書いたりするのは大好きである一方で人と話したりディスカッションをするのはどうも苦手である。
まあ社会性が身についていないということだろう。しかしだからと言って仕事をして生きていくという道を放棄するのもなんだかもったいない話である。もしくは一人でい続けてもお金をしっかり稼げるメンタルと技量を身に着けるのもよいだろうがそれは至難の業だと思う。
自分が積み上げてきたもの,自分が過ごしてきた時間が無駄なものだったと思い知らされると,とても悲しい。信じたものに裏切られた時のやり場のない怒りは人をむしばむ。その悲しさや辛さを部活や学校の勉強で味わい,忘れたいと願ったこともあった。今も忘れたわけではないがいくらかその時の強い感情が薄まっているのは自覚している。
薄まった代わりに防御反応が働いているのだろう。もう感情的になるのは嫌だと言っている自分がいるのだ。動けなくなるくらいなら感情なんていらない,ということだろう。
もちろん人間たるもの感情を完全になくすことは不可能であろうがおそらく強い感情を感じすぎるとキャパシティを越えるということはありうるのだろう。
実はこのキャパオーバー状態を筆者は解決できていない。今でも正直なことを言うと感情的になることが今でもとても怖い。
ただ楽しいことやかっこいいと思うことは少しずつ増え始めている。こうなったらいいなというイメージも前よりは鮮明に見えてくるようになったのだ。
感情とは振り子のように揺れ動くものだと考える。あちこちに揺れ動くが最終的には中心に戻ってくる。しかしその中であちこちに揺られ,時には遠心力が上がりひもが切れそうになることもあるのである。
しかし生きている以上その振り子は全く動かないという選択肢はないだろう。
感情的になりすぎて動けなくなるのはごめんである。少しずつでいいから楽しいことを一つずつ消化して,心を動かせるようになりたいものだ。
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