竹田青嗣『哲学とは何か』を読む【第二章】
2.近代哲学の苦闘と「認識の謎」の解明
2.1.近代哲学の苦闘
先ほど、哲学の普遍認識の重要性の無理解は、哲学者らが成し遂げた仕事の無理解による、という趣旨のことを述べた。
ここでは、近代の哲学者、特にホッブズとルソーの仕事を見ていくことにしよう。
まず、ホッブズの仕事から。
よく知られている「万人の万人に対する闘争」という原理だ。この原理は、ホッブズの『リヴァイアサン』という明瞭な議論が提出されている書でなされている。
要点はこうだ。ホッブズによれば、人間は他の動物よりも常に死の不安に脅かされている。そのため、特別な仕組みがない限り、「相互不安」によって人間はどこまでも戦争を続ける、というものである。
例えば、我々は、生来、他人に暴力を振るうことを法律によって禁じられている。意見が対立してヒートアップしても、歩きスマホをしている赤の他人に肩をぶつけられてもそうだ。この「暴力の禁止」は個人レベルで見ても我々の平穏な生活の重大な基盤を築いている。
しかし、「暴力の禁止」がなければどうか。意見が対立したくらいのことで暴力を振るっていれば、やがてその対立した意見同士で殴り合いの喧嘩が起きる。
それだけではない。
自分が住んでいる家に突然強盗が入ってくる恐れが——なんと「合法」な振る舞いとして——常に存在していたらどうか。
このように、日常生活の視点で見ても、我々は例えば「暴力の権利」を国家という権利に移譲し——「万人の万人に対する闘争」を抑止し——、そのことで平穏な日常生活を得ているのである。
続いて、ルソーの仕事を紹介しよう。
ルソーによって提出された明快な原理として、「社会契約」と「一般意志」が挙げられる。
要点はこうだ。我々が生きている社会は、「統治権力」がなければ戦いを抑止できない。ホッブズの「万人の万人に対する闘争」のように、我々の「暴力の権利」を移譲し、統治するような存在がなければ、戦争はもとより、平穏な日常生活すらままならない。
このことを回避するためには、「社会契約」と「一般意志」が必要となる。
ホッブズのような仕方で「闘争」を回避した上で、各人が自らの「自由」の権利を自覚し、そして互いに「自由」の権利と人間としての尊厳認め合うこと。
そして、そのように移譲された「統治権力」が暴走しないために、個々人の利害のために「統治権力」が「意志」するのではなく、個々人の利害を考慮した全体の、すなわち「一般意志」に基づいて「統治権力」が「意志」することが保証されているという、いわば統治権力の理論的な正当性を説いたのである。
このようなホッブズとルソーの仕事は、近代社会の「設計図」を描き、またこの設計図に普遍認識を与えることでそのあり方の正当性を保証することに役立った。
このような仕事に対して、竹田は次のように書いている。
2.2.カントとヘーゲル
前項では、哲学の普遍認識の重要性の無理解を解くために、ホッブズとルソーの原理を見てきた。
ここでは認識の問題に戻って話が進む。
まず、認識論上の象徴的な問題は大陸合理論VSイギリス経験主義、特にスピノザVSヒュームの対立である。
スピノザによれば、理性の適切な使用によって、世界は正しく認識できるという。逆に、スピノザからすれば、我々の現実世界に対する認識の誤りは、理性を適切に使用していないことから発生する。
スピノザは、主著『エチカ』で、数学の手続きを模した公理→定理→証明といった仕方で論証する。
代表的な論証は、神の存在を肯定する立場で、「汎神論」を論証したものである。
要点はこうだ。神は「一」として無限、永遠、完全なるものとして存在する。神は完全なので外側はない。もちろん時間も空間も全て兼ね備えている。
お気づきのように、ここでは神は「人の形をした」存在ではなく、全ての事柄を兼ね備えた神として存在する。これを「汎神論」という(汎は広汎の汎であることから類推されたい)。
このように、理性を働かせて合理的に論証すれば正しい認識ができるはず、という立場のことを大陸合理論という。
もちろん「大陸」は「ヨーロッパ大陸」からきたもので、スピノザはオランダの哲学者だった。
対してヒュームはイギリス経験論を代表する哲学者だ。
ヒュームによれば、人間はさまざまな「経験」から世界に対するそれぞれの「世界像」を作り上げる。
キリスト教の世界観で生きる者もいれば、イスラム教の世界観で生きる者もいる。
逆に日本では無神論者も多い。
このように、人間はそれぞれの経験、例えば環境や文化からそれぞれの「世界像」を作り上げ、生きているのだ。ヒュームはそう唱える。
有名な言葉は、これもイギリス経験論を代表する哲学者である、ジョン・ロックのタブラ・ラサという言葉だ。
タブラ・ラサはラテン語で「何も刻まれていない石板」、すなわち「白紙の状態」を意味する言葉であり、『人間語性論』においてロックは人間の生得的な観念を廃止し、全ては「経験」つまり外界との接触や心の内側での内省によってあらゆる観念が習得されると説いた。
イギリス経験論者からすれば、理性を働かせたとしても、それぞれの「経験」が違うがゆえにそれぞれ理性によって論証された結論が必ずどこかで食い違う。
世界に対する観念が違うがゆえに、結論に向かうための理性やその能力、あるいは、わかりやすく言えば、その能力を運用するための「バイアス」がそれぞれ異なってしまうのだ。
このような大陸合理論とイギリス経験論の対立は夥しく続き、さまざまな哲学者の論争の的となった。
しかし、ここで登場し、この対立の解消を図ったのがかの有名なイマヌエル・カントだ。
カントのアイデアは極めて独創的だった。カントはこの認識論の解決のために、物自体という概念を提出した。
カントの問題意識はまず、認識論を論じる前にまず、我々人間の認識を可能にするその能力、つまり認識能力はどうなっているのかを考えねばならないと説いた。
カントによれば、人間の認識は感性ー悟性ー理性という三つの性能によって成り立つ。
感性は我々が五感によって知覚する性能。
悟性は感性によって知覚されたものを概念にまとめ上げて判断するための性能。
理性はその概念を使って実際に推論し、認識するための性能のことを指す。
この整理によって次のことが明瞭になる。
第一に、人間は人間の認識能力を超越したものは認識できず、それはいわば「神のみぞ知る」ということ。
したがって、物自体——世界それ自体——を思考することは、人間の認識能力を超越していると指摘する。
第二に、逆に言えば、人間は同じ認識能力を持っているので、目の前にある「リンゴ」は同じ「リンゴ」であるはずだということが保証されるということ(そしてカントは同じ仕方で自然科学の正当性を保証する)。
このように、カントはスピノザのような大陸合理論とヒュームのようなイギリス経験論をいわば統合するような仕事をなしたのである。
他方、ヘーゲルの仕事を紹介しよう。
彼も、哲学において普遍認識をつくる上で極めて重要な仕事をした人物の一人である。
近代哲学は、いわば社会の「設計図」を描いたのであるが、ヘーゲルはその集大成とも言える、と竹田は言う。
近代国家の根幹をなすのは「法」と「権利」と言える——ホッブズがなした仕事による——が、ヘーゲルによれば、「法ー権利」の本質は自由の相互承認によってのみ根拠づけられる。
どういうことか。通常我々の感覚では、「法」は「統治権力」によって制定され、我々はそれを守らされている、という感覚を持つ。
実際、我々は憲法は国民が「統治権力」を制限し、法律は国民が「統治権力」を制限している、と憲法学の授業で学習する。
しかし、ヘーゲルによれば、法のあるべき姿は「統治権力」に基づくものではなく、自分への自由の承認に加えて、他者への自由の承認を踏まえるという意味での自由の相互承認によって根拠づけられなければならない。
逆に、現代の憲法に対する考え方——憲法は国民が統治権力を制限する——は、このヘーゲルの考え方を継承しているとも言えよう。
続いてヘーゲルの認識論について。
ヘーゲルからすれば、カントの認識論の仕事によって認識可能なものと認識不可能なものとの区別が可能になったが、物自体が認識不可能なものなのだとすれば、それは相対主義——認識の仕方は人それぞれ——に対する敗北を意味する。
ここでヘーゲルは、カントのいわば静的な認識論に、時間軸を加えることによって動的な認識論に仕立て上げた。
どういうことか。例えば、乳児にとってはリンゴはただの赤い物体に過ぎないかもしれないが、やがてリンゴが「美味しい果物」であることに気づく。知識が増えるにつれリンゴはバラ科リンゴ属であることを知り、、というように、リンゴは経験や知識によって概念的に豊かなものになっていく。
このように、ヘーゲルは動的な認識論であり、弁証法的に運動していく。
しかし、と竹田は言う。
ヘーゲルは確かに近代哲学における最大の哲学者であることは違いないが、ヘーゲルの認識論はカントの認識論を越え出るものではなく、また次のような有神論を据えている以上、ヨーロッパの有神論の世界像が崩壊すると共に挫折の一途を辿る。
ヘーゲルは、世界を「絶対的なもの」(絶対者)と呼び、その内実を精神的な実体、とした。人間は、弁証法的に認識を発達させることで、この「世界の本体」に達しうるとするのが、ヘーゲルの考えだ。
しかしこれでは、ヨーロッパ的な世界観である、世界=絶対者という世界像から抜け出すことはできない。
いわば神という絶対的な存在を用いた哲学しか作り出し得ず、その存在を証明できないというゴルギアス・テーゼの再来によって挫折することになる。
しかし遂に、近代哲学の夥しい格闘が終わりを告げ、自然科学の発達によって神という絶対者が認識論から姿を消そうという時、ニーチェの登場によって哲学における認識論は新たな幕を開けることになる。
2.3.ニーチェによる「本体論の解体」
ここまで、認識問題が哲学の中心的な論題として夥しい議論がなされ、カントやヘーゲルによってその発展がなされてきたことを見た。
しかし、カントやヘーゲルの認識論は「有神論」を孕み、そこには挫折の種が撒かれているままであったことも見た。
ただし、先に示唆したように、この認識論の問題はニーチェとフッサールという哲学者によってすでに解明されているのである。
少々前提が長くなったが、やっとその内実を見ていくことにしよう。
まずはニーチェから。
竹田によれば、ニーチェによる「本体論の解体」(竹田による命名)によって、先述したゴルギアス・テーゼが完全に解体されることとなる。
竹田によれば、ゴルギアス・テーゼに代表される存在ー認識ー言語の不一致に関する議論は、いわば主観ー客観の不一致という図式に集約される。
どういうことか。まずは目の前にあるリンゴを例にとってみよう(偶然にも目の前にリンゴがない方は想像上のもので構わない)。
目の前にあるリンゴは大変熟しており見るからに美味しそうな見た目をしている。贅沢にリンゴジュースにしたらほっぺが落ちるほど美味しいだろうし、ジャムにしても最高だ。いや、そのままかぶりつくのが筋というものだろう。
しかし、この目の前にあるリンゴは本当に我々が見ているようなリンゴなのだろうか。もしかしたら目の前にあるリンゴは、いやいやこの世界自体が本当は夢の産物かもしれないではないか(デカルトはこの問題を方法的懐疑——我考えるゆえに我あり——の方法で解いた)。
ちょっと早まらずにこの世界が夢の産物ではないにしても、目の前のリンゴがありのままに我々が認識しているものと一致している保証はない。
このように我々の認識に対する考え方——認識論——は、そのままでは非常に曖昧なものであり、さまざまな哲学者によってこのような素朴な世界観を否定されてきた——これを素朴実在論という——。
ことほど左様に、主観ー客観の不一致——我々が見ているリンゴは本当に世界のありのままのリンゴなのか——はあらゆる哲学者が夥しい議論を交わしてきた。
しかし、と竹田は言う。これらの議論はニーチェの「本体論の解体」を前にしてすべて捨て去らなければならない、と。
要点はこうだ。カントのように物自体を想定していれば、我々はいずれ主観ー客観の不一致の問題に苛まれる。ヘーゲルの認識論では弁証法的に、いずれ絶対者との一致がなされるというが、同じことだ。
ニーチェに言わせれば、ヘーゲルのように弁証法的に認識を「発達させる」ようなことはない。我々人間、いや他の生命も含めて、全てはその力——「欲望の形式」と言えばわかりやすいだろうか——に相関している。
例えば、犬の視力は人間の0.2~0.3倍であるが、嗅覚は30,000倍から10,000倍と比較にならないくらい優れている。
嗅覚によって、視覚にさほど頼ることなく食事にありつくことができ、周囲の状況も把握できるのであり、このように生命は「欲望の形式」に相関して認識能力を保有しているのである(ダニは触覚・嗅覚・温覚しか持たない)。
つまり、我々が目の前にあるリンゴを見た時のその見え方は我々の力に相関した認識能力によって構成されているのであり、物自体という「正しい認識」なるものはそもそも問題にならない——「正しい認識」「存在しない」のではなく「問題にならない」のである——。
このようにして、ニーチェはカントやヘーゲル以降行き詰まっていた認識論をほぼ完全に克服することになった。
このニーチェによる「本体論の解体」とは、主観ー客観の不一致論の解体を意味する。
カントの「物自体」を想定を捨て去り、ニーチェの「力相関性」を用いることで、「物自体」(=客観)と認識(=主観)の問題がなくなったのである。
このことは、あの夥しく続いた哲学におけるゴルギアス・テーゼにまつわる大論争の終焉を意味するのであるが、この功績は必ずしも現代哲学者に受け止められていない、と竹田は言う。
2.4.フッサールによる認識問題の解明
次にフッサール。
彼もニーチェと同じように認識問題を解決した人物の一人である。
具体的には、主観ー客観図式を解体し、厳密な学としての哲学——現象学——を啓いた。
しかし、と竹田は言う。
このようなフッサールのなした仕事は、分析哲学やポストモダン思想の哲学者らは愚か、現象学の界隈でも広く顛倒した形で理解されているというのである。
フッサールの書はこれも酷く難解であり、それゆえ現象学を専門とする学者以外は特に誤解しやすいと言える。
話を戻そう。
竹田も引用しているが、フッサールの書に、認識問題の解明の糸口として、象徴的な言葉が記されている。
さらに、次のような記述もある。
やや難しいかもしれないが、フッサールの意はこうである。
知覚がどのようにして客観(超越者)と一致(的中)しうるかはわれわれには理解できないが、知覚がどのようにして主観(内在者)と一致(的中)しうるかはわかる、と。
つまり、フッサールは、ニーチェ同様、客観という確かめようのないものを排除——フッサールの用語で「エポケー」——し、その主観的——内在的——な認識は、どのようにして対象の確信へと至るのか、その構造を考えよう、というのである。
敷衍すれば、目の前にあるリンゴは真の意味で客観的にある、ということを確かめるのは不可能である。
しかし、我々が、目の前にあるリンゴを「ある」と確信している、その確信はどのようにして行われているのか、その構造を理解しようではないか、とフッサールはいうのである。
さて、そのような確信の構造はどのように解明されうると、フッサールは考えたのか。
その詳細は、また別の項に譲ることにしよう。