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作品まとめ

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#小説

不可解なこと

不可解なこと

 なんで自分ばかりつらかろうと思うと、〈つらいのは君だけでないんだよ〉と答が返されて、
 じゃあなぜ、みんなしてつらい思いして生きてるのと尋ねれば、〈世の中はつらいことばかりじゃないさ〉とかなんとか云って丸めこめにくる。
 結局わからぬままだ、生きる意味も、死んでしまう理由もわからない。
 少しは危険なお茶目もすれば、生きてる意味も尊いだろうかと思えど、とうとうそんな勇気もなく。
 わからずや。

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ホットケーキ

ホットケーキ

「ホットケーキが食べたいのよ」と彼女が言い出したのは八月の末の土曜日で、時刻は昼の十時半を過ぎた頃だった。
「急にどうしたの」と僕は言った。彼女はベージュのソファに身体を横たえて、天井を眺めたままクッションを抱きしめている。テレビニュースは三日前に自殺した男子高校生の話題が取り上げられていた。 
「きみは昨日の月を見た?」彼女はうっとりするような声音で云った。
「それがどうしたのさ」高い木々の影に

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ショート

ショート

 寝起きの頭で夢の名残りを眺めている。
 畜生。
 寝ても覚めても気にしている。
 朝ぼらけの空にはまだ白い星が昇って、窓の先を見やるまつ毛の先からさあっと凍るようで身をちぢめた。体温でぬくい毛布の中、夢の景色が目の端っこに引っかかる。
 恋とは、不便。
 叶っても煩うし、叶わずとも勿論つらく、心の方にぽっとほの甘い火が付いたらもう、いけない。

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仲良くなるには

仲良くなるには

「仲良くなるには、共通の敵を作ることです」
 三日月のようにうつくしい弧を描くふとい角をゆったりと左右に揺らしながら、悪魔はささやく。午前四時の自室で、幼馴染に振り向いてもらう方法を訊ねた。街灯の青白い微光が差す仄暗い箱の中で、悪魔の口から乾いたわらいが漏れる。
「そうか、そうすれば……」
 だが、どうやって。
「どなたか、嫌いな人はいらっしゃいませんか」
「嫌いな人……」いる。隣のクラスの堀倉。

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今夜は鳴かない猫のために

今夜は鳴かない猫のために

 夜空が遠く、未熟な月が皎々と光った。月のひかりは朝には消えてしまう夜空の国の宝珠だ。
 まるでどこまでも一人でいるような気がした。窓の先へ目を馳せれば、灯りの漏れる部屋々々がぽつりぽつりと光の波を立て、そこから浮き立つ建物の影が輪郭を露わにする。その姿が怪獣のようで恐ろしい。
 僕はベッドに寝転がり、アパートの近くにいた黒猫の姿を思い出した。ハイエースの下から大きな瞳でこちらを見つめていたあの猫

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雲にナイフ

雲にナイフ

 雲を切ったら赤い血が出た。血はまな板に丸く広がり、どこまでも広がり、ふちまで来ると点々としたたる。生きた雨雲、かつて生きていた雨雲は、ナイフの切れ込みからえも言われぬ甘い匂いを漂わせていた。血を流水で洗い流して、指を入れて中を割くとコロリ、と雷の玉が出てきた。雷の玉はまるで冬の水のように透き通った水晶玉で、照明に透かして見ると、灰色、橙、青、緑と玉の中にうつくしい層を作る。その縞模様は見ようによ

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雪の地平

雪の地平

 夢の中に消えた鳩の行方を探していた。金曜の夜のことだ。昼間に降った雪のせいであたりはしんしんと冷えきり、暗い空の真ん中に月の大宝珠がぽっかり浮いていた。月光が雪の面を白く浮かび上がらせ、その白は地平の果てまでどこまでも続いてゆくようだった。草木の茂りも建物もない穏やかな大地の上に私はいて、吹き抜ける北風の冷たさだけが私の存在を覚えている。
 歩みのリズムは積雪の深さに比例して感覚を空けていった。

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虫

 あの子が笑うのは、とくべつ。
 他の子が笑うより何だか嬉しい気がします。
 それはなんというか、視認することのできない特別な美しさを、黒コートのポケットの中で誰にも知られずにぺたぺた触る時のすけべさに似ています。
 あの子と話したことは、ありません。この先も機はないでしょう。けれども、いえ、それで構やしません。それは例えば、通学するとき、朝の横断歩道ですれ違うことがあるくらいの距離、決して近くな

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ポーション・ウィスキーと苔玉の石ころ兵

ポーション・ウィスキーと苔玉の石ころ兵

 夜の酒屋に僕以外の客はおらず、狭い店の棚にところ狭しに並べられた酒瓶の壁に少なからぬ圧迫感を感じて早足になる。低い天井の灯りが大小まちまちの酒瓶に、つるりん、つるりんと丸くひかって眩しく、僕の意識が宝石の箱に入り込んでしまったようにも錯覚する。
 レジ前に腰掛けて本を読んでいた店主は僕が手にしたポーション・ウィスキーの瓶を見て「一六二〇円」とぼそりと云った。彼は僕より三〇くらい年上の男で、背の低

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鈍感

鈍感

 お盆を過ぎ、駅前の夜はじっとりとした熱気の中にあった。拭えぬ湿気の中に漂うたばこの匂いが鼻に当たり、目前を歩く中年の男が手に差した小さな赤い光に視線が当たる。男が歩くたび、腕が振れて赤い点が暗い中で明滅する。僕はシーツやらTシャツやら何やらがぎゅうぎゅうに詰め込まれたIKEAの青いバッグを手に歩いていた。街灯が道路脇に植った低木の葉々をぼんやり照らし、その景色が歩道を沿っていた。低木の導く先を目

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駄堕

駄堕

 人生は後悔だ。
 気に入りの皿を割ってしまった今朝とか、勉強を放って遊んでいた過去とか、自分可愛さに吐いた嘘とか、故人に言えなかった言葉だとか、好きよ、なんて言い合っても数ヶ月後には倦怠抱えたり、意図せず殺してしまった虫に今更慈悲かけたり、老いれば若いうちにできなかったことを悔い始める。
 くだらないもんだ。
 人間なんてのは薄情なもんで、気紛れに湧き出る利他主義によって他者と関係を繋ぐ生き物の

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ひとまねへび

ひとまねへび

 いつまで続くだろう?
 生活の浅ましさに眩暈がした。スカートのファスナーが壊れてもむりして穿きつづけたり、朝食は六四円の納豆パックとバナナだし、抜け出せない貧乏のつましさを思い知っては自分の小ささが情けない。季節は冬に差し掛かろうとしているのに、帰りの電車窓から眺める景色も、人の表情も変わらずくすんでいる。そのうちの一人に私も含まれていた。
『あの子、ほんとはひとまねへびなんだよ』

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夜雨

夜雨

 夜半の中途覚醒だった。夜のぬるさに肉体の輪郭が溶け出していた。自然と意識が目覚め、僕の意識は闇の天井を見つめ出した。
 窓の外からはぱたぱたと雨音が聞こえていて、まどろみの浮くような感覚は特別な高揚感をともなう。時間の支配のない、この全く希少な感覚を損なわないように、僕は部屋を出た。

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