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鈍感

 お盆を過ぎ、駅前の夜はじっとりとした熱気の中にあった。拭えぬ湿気の中に漂うたばこの匂いが鼻に当たり、目前を歩く中年の男が手に差した小さな赤い光に視線が当たる。男が歩くたび、腕が振れて赤い点が暗い中で明滅する。僕はシーツやらTシャツやら何やらがぎゅうぎゅうに詰め込まれたIKEAの青いバッグを手に歩いていた。街灯が道路脇に植った低木の葉々をぼんやり照らし、その景色が歩道を沿っていた。低木の導く先を目で追って、たばこ男の背中を視線が追い越した時、あるひとつの視線がこちらに向けられていることに気がついた。女の子だ、こちらを見ていた。その子は僕と同い年くらいで、丁寧に巻かれた長髪は遠目からでも明るい白金だった。それが街灯の光の強さだとか、信号機の緑の光のせいで一層綺麗に見える。彼女の手には緑茶のペットボトルがぶら下がって、それが右折する原付のヘッドライトに照らされてエメラルドに光ったのを目に捉えた。たばこの男が通り過ぎ、僕がその子のそばを通る時、その時までその子は僕を見つめていた、見つめていた、というよりもはやそれは凝視と言ったほうが的確で、けれども僕はそう目立つ格好をしていたわけではない。というかぱっと見かわいい女の子に見つめられるというのはそう気分の悪いものではない。その子といえば丸顔に目鼻口のバランスがよく、いくぶん高い鼻の下に結ばれた口許には、口紅の色がその子の肌の白さとよく似合った。172センチぴったりの僕の背丈に迫る勢いで、女の子にしては背が高い方かもしれない。前屈みになっただけで胸許が見えてしまいそうな黒いキャミソール、その上に羽織ったオーバーサイズの白シャツをわざと右肩からずらすように着崩したせいで、肩から降りる腕の白さが露わになっていた。ひじ先までたくしあげた袖から細い腕が覗いて、緑茶を持った方の手に花の刺青が見えた。どちらかといえばかわいいというより綺麗な子だ。マスカラで持ち上げた長いまつげは伏せがちだけれど、それでも僕の目をまるで針で縫い付けるみたいに見つめていた。どうかしましたか、と僕から声をかけるまで、その子はずっと僕を見ていた。まったく金曜の夜に知らない女の子に話しかけるなんてとっても変な感じだ。こういう場合ナンパっていう訳でもないしなんて言うんだろう。
 話を聞くに、どうやら彼女は思いつめた人だった。それは例えば当人が思った通りの人間関係や生活を送ることができず、自らの社会性、適応能力を疑い、その疑念が晴れずに慢性的に生活に食い込み、何年もうずまって生きてることに疲れちゃった人だった。まあ、そんなこともありますよね、とか、そんなこと考えてたって仕方ないですよ、とか、うちで飲みませんか、とか、その子の打ち明ける内面の暗さを聞きながら思っていたのだけれど、何よりまず口をついて出たのは「なんで僕に聞かせてくれるんですか」という当たり前なものだった。僕らはお互いに素性も知らなければ、名前もろくすっぽ知らないのだ。それにもし僕がとんでもなく悪い男だったら、この子は今頃、とんでもなく悪いことをされていたかもしれないのだ。というか僕だってワンチャンやれるかもしれないとも思わなくもなかったのだ。
「誰でもよかったの」とその子は云った。ほんとうにどうでもいいというような白けた声だったけれど、その言葉尻に何かしらが混ざっているようにも聞こえた。
「強いていうなら」とその子は続けた。「あなたはちょうどいい人に見えたから」
「ちょうどいい人」と僕はもう少し聞こうとしたのだけれど、その子はそれ以上は面倒臭いというような顔をして、それきりその話題には触れなかった。僕らは信号機からちょっと歩いたところにある公園まで歩いた。向かいから風が吹き吹け、目の前を歩くその子からいい匂いがした。香水を振るでもない、女の子特有の甘い匂いがして大変幸福だったけれど、歩道に放置されたままのまあまあ大きいうんこを踏みそうになって一気に萎えた。夜の公園に着いた。
 公園は僕らの他に誰もおらず、首の長い恐竜の滑り台と、『お待ちしておりました。ご用意してございます』といった、いかにもおあつらえ向きな二組のブランコが設置してあって、僕らは恐竜のしっぽに腰掛けた。
「オバケという訳ではないんだよね」と僕は言った。
「は?」
「いやさ、あんなところに女の子が突っ立ってるなんてちょっと変だと思ったんだ。僕の目の前を歩いていた男だって君にはまるで無関心だったし、内心オバケなんじゃないかって」
「男? ちょっと、怖いこと云わないでよ」
「あれ、歩きたばこしてた中年の……」僕はそこまで言ってやめた。なにやら怖い話になってきていたし、何もそんな話を女の子としたい訳ではなかった。
「冗談よ」とその子は笑った。顔をくしゃっとして、愛嬌よく口角をあげる笑い方は、その子にぴったりなキュートな笑い方だった。あんまり生きていることに思い詰めているような子には見えなかった。
「君おもしろい」とその子が云う。目の端に涙が溜まっていた。
「笑ってくれて嬉しいよ」と僕は返す。それは本心だったし、意図せずとも女の子を笑わせるということは、僕としてはけっこう誇らしいのだ。
 それから僕らは日を合わせて会うようになった。その日もやはり、僕らは公園で待ち合わせたのだけれど、夕立のせいで公園の遊具は濡れてしまっていた。僕らはしばらくなにするでもなくあたりを歩いてみたり、突っ立って話したりしていたのだけれど、不意にその子がとっておきのいいことを思いついたと云うように花火をしようと提案してきた。
「いいね」と僕は言った。「花火なんてもう何年もしてないな」
 あたりはもうすっかり暗かった。僕らは近くのローソンまで歩いた。雨の上がった歩道のアスファルトは夜のせいで真っ黒に暗いのに、街灯の白い光に照らされてそこだけぬらぬらと光って、立ち昇る雨の匂いと混ざり、夜の暑さが和らいだ。
「サンダルで来るんじゃなかったな」とその子は云った。歩くたび、濡れた砂を足裏に噛むようだった。
 ローソンで一二〇〇円の花火セットと、お菓子とアイスと、ライターと、新聞を二紙買い求めた。
「新聞なんて初めて買ったかも」とその子は云った。
「僕も」と僕はレジ袋の中からガリガリ君のチョコミント味の封を切った。
「チョコミントって美味しい?」
「美味しいね」
「ちょっと理解できないかな」
「そんなこと云っていいの?」僕は返した。その子が笑い、誰もいない夜道に僕らだけがいた。
 僕らは花火をした。ライターの火に触れた手持ち花火の火薬から、勢いよく火の彩りが弾けた。赤が、青が、白が、緑が、煙を上げて光った。ぱちぱち、と火の弾ける音に混ざってその子のはしゃぐ声が嬉しくて僕も笑った。お菓子を食べ、半分溶けたアイスを分け合って、線香花火の橙の玉が地面に消えて行くのを眺めて、花火を終えた。ブランコに敷いた二紙の新聞紙は雨水を吸って、座っていた僕らの尻はすっかり濡れて汚れてしまった。
「やあね」とその子は云った。
「やあね」と僕も言った。
「真似しないでよ」とその子は笑った。
 僕らは濡れた尻を庇うようにして花火の後を片付け始めた。

 服は全部洗濯機の中に放り込んだままだった。午前五時、外ではもうからすが鳴き始めていた。
「彼女とかいないの?」とベッドの上でその子が云った。
「いないなあ、高校の時に一人居たくらいだ」
「ね、その子、どんな子だったの?」
「なんでそんなこと訊くの?」
「いいから」
「そうだなあ」と僕は考えた。高校二年のとき、現代文の選択授業で上級生と授業を受けることがあった。よくある話だけど、その教室に彼女はいた。彼女の歳は僕のひとつ上で、髪をひとつ結びにして、顔には化粧気がなく、人目に目立ちたがらない物静かな人というのが最初の印象だった。クラスも部活も、学年だって違ったけれど、僕がインフルエンザで学校を休んでから、彼女がノートを見せてくれたことがきっかけで話すようになった。席は指定されていて、彼女は僕の左隣に座っていた。意外にもよく笑う人で、歌うことが好きで、星新一を読んでいて、初めて会った時の印象とは全く違うところのギャップに僕は彼女の虜になった。たくさん話して、笑って、僕の知らない彼女の秘密を全部解き明かしたいとまで思った。授業で話すようになった二年生の後期から別れるまでほんの数ヶ月の間、僕は彼女に恋をしていた。その恋が一方通行でないことが信じられなかった。
 彼女が学校を卒業する一週間前に僕らは別れた。彼女の進学する大学に僕が行かないと言い出したことが理由だった。僕にはその頃から進みたい学部があって、彼女の行く大学にはその学部がなかった。そのことを説明したら、「君にはまだ時間もあるし、考えてみてよ」と彼女は云ってくれたのだけれど、結局僕の考えは変わらなかった。
「今思えば、そこまで頑なになる必要もなかったんだ。結局僕はその学部には行かなかったし、彼女の後を追うこともできた。けど行かないと言った手前、今更意見を変えるのも嫌だったんだ」と僕は言った。でも、意地を張らずに彼女のいる大学に入学していたら、今頃どうなっていただろうと思うこともある。結婚していたかもしれないし、子どもだっていたかもしれない。けれども可能性はどこまで行っても可能性だった。今となってはもうどうしようもないことだけれど、当時僕は真剣に彼女のことが好きだった。その記憶は時折り未練として形を取り、僕の前に顔を覗かせる。
「もうずっと昔の話だけどね」
「そうなんだ」とその子は云った。「ほかにも、誰かいなかった? ほら、もっとこう、積極的に話しかけてくれてた子がいた、とかさ」
「そりゃ、いるにはいるけど」と僕は言った。「とくべつ好きってわけでもなかった」
それを聞いてその子は一拍黙って「そっか」と小さく云うのが聞こえた。
「どうかした?」会話の空気がさっきより一段冷えた気がした。
「ううん、なんでもない」
「そっか、それでね。……」僕はそのまま話を続けたのだけれど、その後なにを話したんだったか。

 彼女は公園に来なくなった。送信したメッセージにも反応はなく、電話しても応答なしの表示が出るだけだった。
 しばらく日が経ってその子からメッセージが入った。僕は通話ボタンを押した。その子から応答はなく、耳に当てたスマホに流れる待機音を黙って聞いていた。待機音が途絶え、スマホの画面に応答なしの表示を目に留めた。
 翌日、僕は仕事を終えて駅に向かった。久しぶりの定時上がりで気分は良かったけれど、ワイシャツが汗をかいた肌に張り付くのが不快で、早く冷房の効いた車内に入りたかった。改札を抜け、エスカレーターでホームに上がる途中、階段を降りていく数人を見かけた。ホームに電車が停車してる訳でもなく、階段を降りる人らは晴れない顔をしている。
 ホームに着くと、電光掲示板には振替輸送の案内が表示されていた。人身事故の影響、そこまで読んで今更思い出した。時刻はすでに、その子がメッセージで示していた時刻を過ぎていた。スマホにはその子からのメッセージが一件入っていて、それを見た僕は間に合わなかったのだと思った。心が白くなった。

「ほんと迷惑だよね」と前に立つ女が云う。女は誰かと通話していた。振替輸送の電車を待つ列の中だった。人が落ちて、電車が遅れて、ホームから流れるアナウンスといえば、電車が遅れたことによるお詫び。苛立ちを相手にぶつける女の後ろに立った僕は、呆れとも哀しみともつかない心でホームに立っていた。
 人が死ぬ、レールに轢かれて肉になる。
 あの子は、女に、迷惑をかけた。
 八月の終わり。
 人で混み始めたホームには急行が停まろうとしている。


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