【文学とは何か】坂口安吾「文学のふるさと」を読んで
こんにちは、にゃごんです。
今日は坂口安吾の日本文化私観に収録されている「文学のふるさと」を読んで、文学について考えたことをつらつらと書いていきたいと思います。
私と文学との距離
私は文学というものが分かりません。
私は昔から、文学からは遠からずも決して近くはないような距離を保ってきました。
中学の時から、SFや推理小説が好きでよく読んでいました。伏線が張られているのを見事な流れで回収したり、最後にどんでん返しがあるような物語を好んで読みました。特に貴志祐介が大好きで「新世界より」は今でも自分の中でSF最高傑作だと思っています。
高校に上がると、朝の時間に10分読書をしなければいけないという決まりがあり、自分で本を持ってくるのがめんどくさかった私は学級文庫においてあった夏目漱石や芥川龍之介、太宰治に出会い、以降は好んで読んでいました。また、現代文の授業でならった梶井基次郎の「檸檬」には衝撃を受け、文学もとい文豪ってかっこいいな、と思った時期がありました。とはいえ、そこから文学にのめり込むようなことはなく、あくまで朝の時間のお供ぐらいのものでしかありませんでした。
大学に入ると、本が好きな先輩や同期が出来ました。しかし、彼らが読んでいるような純文学は自分の趣味ではありませんでした。もっと、ダイナミックなストーリーが好みでした。しかし、趣味云々の話ではなく、文学をたしなんでいる彼らにどこか引け目を感じていており、遠ざけようとしていたのかもしれません。
ある日、文学男子が家に来たとき、私が高校の時に買った夏目漱石などの本を見て、「こんなのを読むのか」と言われたことがありました。私は「高校の時になんとなく買ってみたやつだ」と答えました。このとき、とても悔しく感じました。このとき、「こいつ、どうせ何も分かっていないくせに、いっちょまえに本だけはもってやがる。」と言われた気がして、なんとなく気まぐれで買ってみたことにして、興味が無いようなふりをしてしまいました。
以降は、小説でさえもあまり読まなくなってしまいました。そうなった理由はよく分かりません。どこか本自体に対して苦手になってしまっていました。
それから少したった時に彼女ができました。彼女は村上春樹の「ノルウェイの森」が好きで、自分にも読むように勧めてきました。彼女から本を借りて読み始めてみると、一気に読み終えてしまいました。面白かったかどうかでいうと、正直微妙なところでした。しかし、私が好んでいるような伏線やどんでんがえしが有るわけでもないにも関わらず、なぜか食い入るように読んでしまったのです。
数日後、本の感想を彼女に聞かれました。彼女は直子と緑のどちらが好きかとか、ワタナベは本当の愛を持っているとか、について話してくれました。それに対し、私はなにも言うことができませんでした。何を言っても自分の軽薄さが露呈するだけのような気がしたからです。私はあの物語を読んで、たしかに何かを感じたはずなのですが、それが何か自分でも分からず、ましてや言葉にすることなどできませんでした。それならば、表面的なことをいって彼女を失望させるくらいなら、いっそのこと黙ってしまおうと思い、何も言いませんでした。
ただ、なんとなく、「また文学に負けた」という気がしていました。
坂口安吾の考える文学
話変わって今度は坂口安吾が考える文学について「文学のふるさと」から考察したいと思います。
安吾は童話である「赤ずきん」を引き合いに出して論じています。
童話は通常、教訓、モラルがあるはずなのですが、この童話にはモラルがありません。というのも、何も悪いことをしていない可憐な少女が突然おばあさんに扮したオオカミに食べられてしまうからです。
安吾は「赤ずきん」に対して、
安吾は、モラルがないこと、突き放すことが文学において否定的な態度ではなく、むしろ文学の建設的なもの、モラルとか社会性というものは、この「ふるさと」の上に立たないとならないものだとも書いています。また、この物語が伝えてくれるものとは、「絶対の孤独ー生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」であると書いています。
「ふるさと」とは何なのでしょうか。私はタイトルの文字通り、「文学の起源」のようなものだと考えます。
つまり、
文学の起源は、アンモラルで突き放されたような意識・自覚の上にあるべきであり、社会性だとかモラルのようなものは、そのような意識の上にしか成り立たないということです。
私は、生存しているうちに他者が死ぬことが「絶対の孤独」だと解釈しています。生きているうちは、自分は究極の意味では孤独であり、死んでしまうことが「絶対の孤独」からの唯一の救いだという風に受け取りました。
ノルウェイの森について
ノルウェイの森が純文学かという議論はさておき、この本は私が人生で初めて文学だと思った作品です。
今まで、この本についての感想は今まで書くことはできませんでした。なぜなら、なぜ直子は死ななければならなかったのか、なぜワタナベは苦しまなければならなかったのか、飲み込めないことが多すぎて自分の中で納得がいっておらず、考える必要があったからです。
しかし、今日、坂口安吾の本を読んで、なんとなくそういうことかという気がしてきました。
ノルウェイの森はどうにも救いようがなく、慰めようがない物語です。まさに安吾が言っていた「赤ずきん」のようなモラルがなく、突き放されたような話なのだと思います。この話では、あくまで生きている人間には「絶対の孤独」があるという原理と真正面から向き合っているのではないでしょうか。直子は死によって「絶対の孤独」から解放され、ワタナベは直子の死によって「絶対の孤独」を最も強い形で感じ、苦しむのです。現実にはモラルなどは存在せず、モラルがないことがモラルになっています。そのような生者の原理原則に根ざした話なんだと、思いました。
最初から生存している者には救いなどはなかったのです。今更ながら、私が初めて読んだときに感じたものを無理矢理言葉にするなら、「切なさ」と「美しさ」であったと思います。
感想についてつらつらと書いてきましたが、私は依然、文学の「ぶ」の字も分かりません。しかし、それはみんな同じなような気がしてきました。みんな本当のところはなにも分かっていないのではないでしょうか。
文学とは「分かる」ようなものではなく、それについて「考える」ものなのではないか、と今は思います。
これからは、今まで逃げてきたものにも向き合うようにしたいです。
長々と失礼しました。
それでは、ありがとうございました。
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