#211【忘れ得ぬ名文】6 谷川俊太郎『未来』
今日もお読みくださってありがとうございます!
今日は久しぶりの「忘れ得ぬ名文」です。
谷川俊太郎さんといえば『生きる』や『朝のリレー』などが有名かと思いますが、実は谷川さんの詩は合唱曲の歌詞にも多く採用されています。
『二十億光年の孤独』『サッカーに寄せて』『春に』など、名曲ぞろいですが、今日は『未来』について書きたい。
谷川俊太郎「未来」
長じて夏の京都旅行の際に、宇治平等院鳳凰堂の裏手の成熟した竹が、夏の青空にまっすぐ伸びていく姿を見て、ああ「未来」で表現された世界はこれだ、と思いました。
それ以来、青空の竹林が大好きで旅先で見つけると永遠にいてしまいます。
ゴールデンウィークの南禅寺の山門は最高です。何時間でもいられます。
「青空にむかって僕は竹竿をたてた」という、ひとり静かな決意。
ひとり自分の決意をするって、実はとても大人な行為ですよね。
性的な象徴性を読み取る人もいるけど、ちょっとわかる。谷川俊太郎さんだし、確かにそういう雰囲気も織り込まれているのかもと思う。
さらに、僕がたてたというその竹竿が「きまっている長さをこえてどこまでも青空にとけこむようだった」という、素直で健康的でのびやかな未来への期待。なーんて素敵な表現なんでしょう!
そして一転曲調が変わり「青空の底には無限の歴史が昇華している」とな。
「青空の底」という表現の質感もとてもいい。底、ってちょっと水を連想させますよね。くらたは手を浸した水の底、をなんとなく連想します。
そこにあるのは「歴史」。「無限の歴史が昇華」と急に重厚な単語が並んで、いかにも「底」っぽい。その中にも「昇華」という上昇方向の印象のある言葉で締めてバランスを取っている。
興味深いのは、「僕もまたそれに 加わろうと」するというところ。
谷川俊太郎は、青空にとけこむような竹竿のように既定の長さをこえてどこまでものびていくはずの僕の未来は、無限の歴史への合流を志向している、と描いている。
自分が歴史の一部であることを認識したうえでそれを志向するというのは、確かに現代的には成熟した市民的ふるまいだとわたしは思う。そのときに「は?他人なんかしらねーよ」というわけにはいかない。
健康的な伸びやかさと歴史の一員たらんとする重み、このバランスがこの曲、この詩の魅力だとくらたは思います。
合唱曲「未来」
この歌に出会ったのは高校生の時でした。
高校の合唱部のOB・OG会の皆さんのコンサートで、2学年上の先輩が指揮を振ったステージで歌った曲と記憶しています。
この先輩は、たいてい優しく、時に厳しく指導してくださいましたが、当時は珍しい長髪の男性で合唱部のシンボル的存在でもあり、まろやかで美しい高声と心の底から楽しそうに歌う姿と、知性的で融和的なコミュニケーションの取り方がなんとも大人で、くらたは先輩の大ファンでした。
ていうか3年生の先輩ってみんなそうだった。優しく厳しく、歌が上手で、歌うのが大好きということが全面に伝わってきた。
その先輩の指揮を振る姿の楽しそうなこと!
今でもこの曲を聞くとき、ありありと目に浮かびます。