【読書】日本とユダヤの古代史&世界史 その2−2
出版情報
著者:茂木 誠、田中 英道
出版社 : ワニブックス (2023/6/9)
単行本 : 304ページ
本稿の構成
本稿は下記のような一連のシリーズの2. ユダヤ人と日本人の関わり その2-2です。
ユダヤ人と日本人の関わり
2-2 古代日本にユダヤ人が来ていた!そのうち第3波〜第4波まで
古代日本にユダヤ人が来ていた!そのうち第5波
大航海時代と改宗ユダヤ人
著者のひとりである田中英道の方法論 フォルモロジー(形象学)に関しては、2-1 古代日本にユダヤ人が来ていた!そのうち第1波〜第2波まで に記載しています。
ユダヤ人と古代日本人との関わり
田中はユダヤ人は5波に分かれてきたという。
第1波 前13世紀 出エジプト|縄文時代・日高見国・スサノオ
第2波 前722年以降 アッシリア捕囚と失われた10支族|日本建国
第3波 前3〜2世紀 秦の始皇帝・徐福と3千人|秦氏各地に渡来
第4波 3〜4世紀 弓月国から秦氏2万人|応神天皇が受け入れ
第5波 431年以降 エフェソス公会議・ネストリウス派|蘇我氏
このうち本稿では第3波、第4波を扱う。
第3波 秦の始皇帝、徐福と3千人
秦の始皇帝のころの日本
始皇帝が即位したのが前221年。そのころの日本は弥生時代の真っ最中。前10世紀から前3世紀までが弥生時代だ。前5千年ごろの縄文海進という暖かい時期から寒冷期となり、東日本の人口が少なくなり西日本の人口が増えてきた時期だ。暖かさを求めて西日本に移住した人もいただろうし、水田稲作によって人口増加もあっただろう。日本では縄文時代にすでにクリもイモも栽培していた。稲だって陸稲を作っていた。水田はまだだけど。田中は稲をはじめ五穀をもたらしたのはユダヤ人だという。
日本の稲はDNA的には長江流域のものだそうだ。気候的に朝鮮半島を渡って水田稲作が伝わったことはあり得ない。田中は「ユダヤ人が海洋民族フェニキア人を取り込んで海洋進出をした」という説をとっている。そして海伝いに稲作がもたらされた、と。
秦の始皇帝もユダヤ人!?
まず始皇帝は出自が疑われている。父の子ではなく、父の側近の大商人 呂不韋(りょふい)の子ではないか、と。そしてその呂がユダヤ人だったのでは、ということなのだ。呂不韋という語のチャイナでの発音は、ユダヤの司祭レヴィに似ているという。また始皇帝の息子のDNAから顔つきを推測したものが北西大学から2018年に発表されていて、これが見事な中東顔なのである。
始皇帝が3千人の男女を徐福と共に送り出した
よく知られた伝説ではあるが、欲しいものは何でも手に入れ、意のままにできた始皇帝だが、寿命だけはそうではなかった。司馬遷の歴史書『史記』には次のような記述がある。
徐福が始皇帝に「不老長寿の妙薬を探してみせますよ」と甘言し資金を出させる。だけど妙薬を探すのに3千人!?しかも若い男女!? 技術者集団もつけて。財宝と財産もつけて。行った先で暮らせるようにと五穀も持たせて。移民、入植を狙ってるよね、どう見ても。徐福はジョセフのチャイナ語読みでは、という話もある。徐福=ユダヤ人説。ディアスポラ(離散)の行くあてのない、若くてやる気のある男女を集めて夢の蓬莱山で豊かな暮らしを築き上げよう、と意気揚々と東に向かう。不老長寿の妙薬を探す、という名目で。もともと移民・入植で始皇帝と徐福で話がついていたのかもしれない、と妄想を逞しくしてみる。
日本各地に残る徐福伝説
田中によると「徐福が来日して各地に滞在していたという伝説は、青森県から鹿児島県まで、20カ所以上も存在する」p135という。徐福は一人ではなく「方士」の称号なのではないか、そうであれば「徐福上陸の地がいくつあってもおかしくない」p136とも。また、茂木は下記のようにいう。
天狗に扮した山伏とユダヤ教徒。ここまで似てる!?というほど似ている。とすると道教にもユダヤ教の影響が!?
上陸した徐福たちは多分新しい農業技術や新しい精神文化で現地の人たちに溶け込んでいったのだろうか。
第4波 応神天皇が受け入れた2万人の秦氏
応神天皇は4世紀後半から5世紀前半の人物で、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)という古墳に葬られた歴史上の人物だ(日本書紀での名が誉田天皇(ほむたのすめらみこと)なので、この古墳に葬られているのは、ほぼ間違いないだろう)。古墳は弥生時代にはない。新しい技術、新しい風俗習慣が入ってきたのだ。
母の神功皇后は三韓征伐を行った人
神功皇后はいろいろな意味で伝説的な人物である。戦前は教科書に載り、お札にもなったので、日本人で知らない人はいなかった。この女性、神功皇后は日本書紀での扱いが破格である。まるまる1巻(第9巻)を神功皇后に充てている。それゆえ、明治以前は『皇后』ではなく『天皇』の扱いであった。また江戸期には神武天皇より人気があった。人気の秘密は、神がかりとなり御神託を伝える能力とカリスマ性と武功だろう。神功皇后と夫の仲哀天皇は熊襲討伐のために筑紫に行く。そこで神功皇后は神がかりになり「熊襲なんてほっといて新羅を討てば金銀財宝が手に入るぞよ」との御神託が。仲哀天皇はこれを疑い「なんだか怪しいなぁ、さ、熊襲に行こっ」といっている間に亡くなってしまう。神功皇后はそのとき妊娠していたが、性器内!?に石を入れ、体を冷やして出産を遅らせ、みなをまとめ上げ新羅に出兵。見事新羅を従えて、それを見た百済も高句麗も日本に従うことを約束した。その後、神功皇后は亡くなるまで70年間権力を掌握し続けた。
砂漠の民たちはラクダの性器内に石を入れて避妊をするという。家畜に生活を依存する人々にとって妊娠・出産をコントロールすることは基本中の基本。神功皇后と遊牧民とのつながりを彷彿とさせるようなお話だ。
仲哀、神功皇后、応神天皇と3代かかって秦氏を受け入れ??
そもそも秦氏の受け入れ要請は、仲哀天皇に来たという。そしてそれを新羅が邪魔していた、と。
神功皇后が新羅に行って真っ先にしたことは宝物殿から地図と戸籍を得ることだった。新羅を征服して治めるつもりであればこれは必要な情報だ。だが当時は戦争に勝ったとしてもどちらが上か下かを決めて、負けた方が「朝貢」するのが普通だし、実際神功皇后もそうしている。これはどこからどれぐらいの人々を移動させる必要があるか準備のためではなかったのか。ま、実際に移民受け入れまでは、それから70年以上かかるわけだが。
受け入れる方も、移民しにくる方も相当な覚悟と準備が必要な2万人という数。古墳時代の日本の人口は540万人ほどだという。今の人口比に換算すれば44万人の移民となる。インパクトからすれば100万人といっても過言ではないだろう。平成13年から令和4年までの21年間の帰化許可者数は約23万人。年間平均約1万人。当時の日本が2万人をどれほどの期間で受け入れたかは不明だが仮に1年とすれば古代日本で現在の100倍の移民を受け入れたことになる。(数年かけたとしても現在の数十倍だ)。ちなみに現在の在留外国人(留学生、技能実習生など)は300万人弱。ここに1年間で100万人上乗せされるとしても、影響は大きい。(在留外国人が200万人弱から300万人弱に増えるのに5年間。100万人弱から200万人弱まで増えるのに15年かかっている)。
弓月国はどこに?
wikiなどによると「弓月国なんてない」ことになっている。だが田中は下記のような移動ルート、弓月国の地理上の位置を想定している。
また茂木もイリ盆地にあった都市国家だと言っている。
茂木がいうからには根拠があるのだろう。だが私程度の検索スキルでは納得のいく情報を得ることができなかった。書籍などをあたれば、あるいは別言語で探せば出てくるのだろうか。
応神天皇は八幡神社の主祭神に
神社という形式は、古墳時代よりもっと後、仏教公伝の後で仏教が国家仏教になると同時に作られた。7世紀ごろ伊勢神宮が作られ、それまでは、単に山であったり、巨木や巨石や湧水が『ご神体』=『神が宿る聖なるもの』として祀られているだけだった。
応神天皇には立派な古墳があるがあり、それはきっと自分たちを受け入れてくれた感謝の証として秦氏が音頭取りして築いたものだろう。だが秦氏は神社創建の時代になると改めて八幡神社の主祭神として応神天皇を戦神(いくさがみ)として祀った。新羅と戦ってまで、自分たちを迎えいれてくれたことを後の世まで讃えることができるようにしたのだろう。八幡神社のハチマンは元々はヤハタと読んだ。『八雲たつ(やぐもたつ)』といえばたくさんの雲が立ちのぼる様子を表している。ハチでたくさんの意味なのだ。ヤハタはたくさんのハタの神社。八幡は当て字だろう、というp162。秦氏は応神天皇に並々ならぬ恩を受けている。そして子々孫々私たちを見守ってください、と祈ることができるようにしたのだろう。
古墳はハイテクな公共事業
古墳は今では木がうっそうと生え小ぶりな丘ぐらいな認識であるが、できた当時は石組みがしてあり、埴輪がずらっと並べられ、人工物であることが一目瞭然だった。
「石を組む」ことで河川の加工=治水が可能になり、大規模な水田開発も行われることになったことだろう。2万人の秦氏はそういう最新技術を日本にもたらした技術者集団だった。機織り(はたおり)とか畑(はたけ)にあるハタという音も秦氏に因むという話も。また「干拓し、治水工事をし、余った土砂を古墳にした。みなで水田開発をしたモニュメントとして古墳を残した、という説」p164 もあるようだ。権力者が権力に明かして平民たちを使役した、ということではなかったかもしれない。でなければ全国に16万基もの古墳は作らないだろう。(ちなみに神社は8万8千社という)
埋葬文化=精神文化の変化
埋葬という文化を持つのはネアンデルタール人とホモサピエンスだけなのだそうだ。埋葬によってそれを行なった人々がどのような死生観を持っていたのか理解することができる。縄文時代の人々は村の中に墓地を作っていた。
エジプトでは王様もある程度の庶民もミイラを作ったそうだ。死後の蘇りを信じて。中東にはそういう慣習というか伝統があるのだろう。
精神文化と技術に目をみはる古代日本人。
今よりちょっと若い頃に山形の月山に登ったことがある。そこでは祖先の霊を高いところに祀り、天への帰っていく、という信仰があり、頂上にはたくさんの卒塔婆があったように思う。同じような信仰が高野山にもあると聞いた。もちろんもっと平野部にもお墓はあるのだが、高いところにも祀るのである。日本の他の山でもそういう信仰はあるのだろうか。「高いところに祀る」つながりで古墳とも関係があるのだろうか。
ユダヤ人そっくりな武人埴輪
ユダヤ人には異教徒と自分たちを区別する肉体的な印を大切にしていたようだ。
「みずら」というのは、下記のような髪型で、多分毛深くない東洋人が無理やり長いもみあげ風のものを自分の髪の毛でつくってみた…ものなのではないか、と。田中の説明を読んでそんなふうに妄想した。
千葉県の芝山古墳にはたくさんのユダヤ人風の武人埴輪がある。これだけ似ていると、やっぱり何か少なくとも交流のようなものがあったのではないか、と思ってしまう。
そして16万基もつくられていた古墳であるが、仏教が入ってくるとぱったりとつくられなくなる。それと同時に神社も作られるようになる。古墳はせいぜい200年ほどの習慣。一方、神社は1500年は続く習慣だ。
なんとなく…最新のテクノロジーに目を奪われ、夢中になって取り入れ、そしてまた次の新しいものが来て、そちらの方が自分たちに合うと思えば躊躇なく前のものは、習慣としては捨てていく…。
そんな新し物好きで、自分たちに合えばずっとその慣習は続け、捨て去ったものは忘却する。なんだか現代日本人にも当てはまらないだろうか。
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。本文内『「」pページ』の「」中は、pページ内文章をそのまま記述していることもありますし、pページ内に記述されている重要部分を本稿作者により要約していることがあります。
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
ご存知キングダム
茂木誠のyoutubeチャンネル
田中英道のyoutubeチャンネル
wikiによると、田中英道のyoutube番組で面白そうなのは、コレらしい。