【映画】セデック・バレ 第一部:太陽旗 第二部:虹の橋
作品情報
タイトル:セデック・バレ 第一部:太陽旗 第二部:虹の橋
監督 : ウェイ・ダーション
時間 : 4 時間 36 分(第一部、第二部 合計)
発売日 : 2013/10/31
出演 : リン・チンタイ, マー・ジーシアン, 安藤政信, ビビアン・スー, 木村祐一
字幕: : 日本語
昭和初期の植民地経営の中で
ざっくりした、あらすじは…「1895年から50年間続いた台湾の日本統治時代。そのなかで起きた原住民族による武装蜂起「霧社事件」を描く本作は、二部構成の4時間36分に及ぶ台湾映画史上最大の歴史大作である」(amazonの作品紹介より)。第一部では日本による統治という形で近代化の波にさらされるセデック族の人々が部族の誇りをかけて蜂起するまで、第二部では日本の警察と日本軍による鎮圧に対して勇敢に果敢に戦う男たちと様々な感情が交錯するセデック族の人々が描かれている。
なつかしい風景とともに
この映画のシーンを見て「ああ懐かしい」と思う視聴者も多いのでは、と思う。それは、途中まで、なのだけど。台湾の雨の多い急峻な山々のことではない。もちろん生蕃たち先住民のことでも、ない。昭和初期の日本人の小さな街、駐在所の様子、秋の運動会。木の建物、ガラスの窓、着物の人々、洋装の人々、黒電話、物干し竿。どれも強烈に懐かしい。東京オリンピック開催前後に生まれた私にとって、幼稚園の頃にはあったけど、もう中学校の頃にはすっかりなくなってしまっていた風景。ぎゅーっと抱きしめたくなるような。若い人たちはどう思うのだろう?
そういう中で、行われた殺戮。いろいろな意味で揺さぶられる映画だ。
先住民たちの刺青、口琴…縄文を思わせる森
アイヌの人々は、口の周りや手足に刺青をしていたという。痛がったりして村の掟通り、刺青が入っていない人々もいたのかもしれない。だけれどそれは恥とも受け取られ…。夜寝ない子どもたちに「口が半分、手が半分のお化けが出るよ」と言って寝かしつけた、とどこかで読んだか、聞いたか、したことがある。口琴の音もやはりアイヌの人々を思わせる。縄文の人々も刺青をしていたのだろうか?口琴に合わせて踊っていたのだろうか?
生蕃という人々
だけど台湾先住民はアイヌの人々ではない、縄文人でも、ない。近隣の部族間では首を刈る風習を持つ人々。そうやって多分数千年間も、あるいはもっと、生きてきた人々。敵対部族の首を刈って、刺青を入れてもらって一人前。そうやって祖先の待つ虹の橋を渡る。一人前の戦士として。それが誇り。
極端な風習は、人口調整の可能性がある。チベットの人々の奥さんが二人の夫を持つ風習。二人の夫は兄弟だ。奥さんが一人であれば、一人分しか妊娠しないため、と聞いたことがある。もう、今はそんな風習はないのだろうけど。
狩りが生業だとすると、一人当たり相当広い面積がないと、十分な食料が確保できないだろう。自ずと適する人口密度が決まってくる。狩りは興奮も冷静さも必要な技術だ。首を取る、取られる。その緊張感。狩場を守る使命。冷静に獲物を仕留める頭脳と体力。生のすぐ際に死がある生活。誇り高くなければ生きていけない環境で生きる人々、だ。
精一杯立派に生きようとする(植民地経営をしようとする)日本人
一方、この映画では、日本人は敵役として描かれている。まあ、主人公たち生蕃に感情移入しようとすれば、そうだよね…。だけど…そう簡単にはいかないよ、日本人としては。敵役だとしても、この映画では比較的公平に描かれていると思う。どこにでもクズはいるし、立派な人々も、いる。
全般としては、あの頃の日本人はすごく頑張って立派に植民地経営をしようとしたんだと思う。贔屓目で見てるよ、それは否定しない。日清、日露の戦いがあって、台湾は確か日本にとって初めての海外統治だったんじゃないかな?投資もたくさんした。インフラに鉄道敷設、大阪大学や名古屋大学より台北帝国大学設立の方が早かった。のちに国民党軍がやってきた時に下っ端の兵士は水道の使い方すらわからなかったという。もちろん力任せも、あっただろう。だけど…本気で『搾取』しようとしたのであれば、警察官に採用しないと思う、生蕃を。師範学校には入れないだろう。ネイティブアメリカンの子どもたちは、親から引き離されて学校に行くことになり、小学校の一年生から三年生を2回繰り返しさせられた、という。上級の勉強なんか、させてもらえなかった、ということ。だから何だ、というわけじゃないけど。ましだった、と言ってもしょうがないかもしれないけれど。どのみち押し寄せる近代化をお手伝いさせていただきました、と。行き過ぎがあったらごめんなさい。と、いうしかないのでは、と思ってしまう。無防備な無辜な日本人を百数十人も切り殺された。女性も子どもも。その事実を忘れてしまっては、やはりいけないと思うのだ(いつまでも恨む、ということではないよ、念のため)(それから日本人のしたことすべてを正当化しようとしているわけでもない、それも念のため)。
力がものをいう当時の世界の中で、今までしたことのない海外統治を、お天道さまに恥じないよう、背伸びしながらも、一生懸命やったのだ、と…。本気でみんなでよくなろうとしたのだ、と。私たちの祖父母はそういう人たちであった、と、私たちが信じなくて、誰が信じようというのだろう?
そういう中で起きた凄惨な事件。そして落とし所は『自らの死』であると覚悟して、魂の戦いをした。一つの世界観、美しい映像、音楽、踊り、生の交錯を描き出した。本当に素晴らしい映画です。
これ以降、ネタバレを含みます。
ここからネタバレを含むよ
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花岡兄弟
花岡一郎と二郎兄弟は本当の兄弟ではない。霧社(地名)で成績優秀な子どもが皇化教育の一環で師範学校まで出て、日本名を名乗り日本人となって地元の警察官になる。妻も元生蕃でそれぞれ花子、初子という。妻たちもそれぞれ着物を着て畳に布団の生活。こちらもすっかり日本人女性と変わりない。生まれたばかりの子どもがいて、「この子が大きくなる頃には、もっとよくなる」と笑顔で話しかける。
それでも…もちろん、軋轢は、ある。葛藤も。自分は、日本人なのか、セデックなのか。死んだら自分の魂は靖国神社に行くのか、セデックの祖先の待つ虹の橋を渡るのか。一郎も二郎も映画の中では、事件の後、自分たちの一族と共に森に入る。一郎の妻は生まれたての子どもを連れていて和装だ。二郎の妻は妊娠していて、夫に「お前は生きて子どもを育て、セデックの祖先の誇りを伝えてくれ」と投降を促される。一郎は警察の制服を、二郎はセデックの伝統衣装を。一郎は妻子を手にかけ、自分は割腹自殺をする。二郎はセデックの伝統に則り首吊りを。
問う一郎に二郎は言う。「死んでしまえば葛藤から自由になる」。「靖国に行こうが虹の橋を渡ろうがどちらも自由だ」。「迷いは断ち切れ」と。
「この子が大きくなる頃には、もっとよくなる」がみんなの望みだったのに。
大頭目モーナ・ルダオの最後
圧倒的存在感で反乱を指揮する大頭目モーナ・ルダオ。その彼は、ときどきに一人で戦いの舞を舞う。山頂であったり、滝のそばで。あるいは一族の中であったり。みなと別れる時にも。素朴で、どちらかといえば単調なリズムとメロディのアカペラ。でも、大地とどっしりとつながった踊り。「ああこういうのが、きっと日本にもあって、のちに能になったり歌舞伎になったり、相撲の四股になったりしたんだろうなぁ」と思わせる。
「自分は日本軍に捕まるわけにはいかない」。もう、踊りを踊る時点で、一族の皆との絆が切れている。何か、別の覚悟がある。皆がついていけないような境遇・境地に立っている。そういうことがわかるような、無言の演技・演出。この監督は、そういう無言の演出が上手い。
「ここから先は投降するも、自決するも、戦い続けるも自由だ」と大頭目は皆に告げる。そしてその後を息子に託す。「戦いのリーダーはお前だ」。
モーナ・ルダオは伝説になりに行く。日本軍に捕まらず。伝説となって一族の誇りとなる。きっとそれが彼が祖先の霊に誓った約束、だ。それが彼が虹の橋を渡るための誓い、なのだ。一人だけで果たす、彼にしかわからない、心境であり誓い。孤独な誓い。
前もって自分の妻と孫は手にかけてある。妻は誰よりも彼のことを理解している。妻はたぶん、こんな蜂起は反対だった。「なんてことを始めたんだ」「うちの男たちは何を考えているんだ」。だけれど、男たちの足手纏いにならないように一族を連れて森に入り、食料がなくなれば自決を促す。そういう妻。共依存の妻だよね、などという揶揄は届かない。モーナ・ルダオは日本人が失った武士の魂の香りがする。彼の妻は、武士の妻、だ。乃木希典とその妻のように。そんなふうに重ねて見てしまう、どうしても。
だからなんだ、というわけではないのだけれど。何度も揺さぶられる。失ったものを突きつけられる。そんな映画だ。
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ネタバレはここまで
この監督は、たぶん、『腹芸』というものがわかっている。それが映画の深みを増していると思う。最初にも書いたが、これは美しい一つの世界観を描いている。戦闘シーンは苦手だけど、何度も見たくなる世界観だった。
セリフの一つ一つは違っているかもしれませんが、私の心に残っているものだ、ということで。
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
セデック・バレの配信バージョンとDVDバージョン
ウェイ・ダーション監督監修によるセデック・バレのその後、聞き取りドキュメンタリー
マンガ(=劇画)で描かれた霧社事件
抗日要素強め。
霧社事件を描いた本
上記の記述は比較的ニュートラルであるという書き込みが。
上記三部作は、どちらかといえば「抗日」要素が強いかも。1冊目を読んだ印象。
上記の本も抗日要素強めかな?
台湾の人によって初めて書かれた台湾の歴史
そういう触れ込みが、書いてあった。
同じ ウェイ・ダーション監督のテイストのまったく違う映画
どれもが現在の台湾を形作っている。
子どもの昭和史
当時の少年雑誌。ある種の雰囲気を伝えてくれる。霧社の小学校や建物を見た時と同じ懐かしさ。
noteにお祝いをいただきました。よかったら読んでみてください。