【読書】シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) その1−3
出版情報
タイトル:シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))
著者:岡田英弘
出版社 : 藤原書店 (2014/5/24)
単行本 : 569ページ
本記事について
本記事は、本書 シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))の感想についての一連の記事の一つである。
【読書】シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) 予告編では、本書の概要と著者 岡田英弘の紹介を行なっている。
【読書】シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) その1−1では、漢字についてのうち「漢語の起源から科挙まで」について述べた。
【読書】シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) その1−2では、報告者によるほんのり考察「日本語の漢字」について述べた。本書の「漢人の精神世界」と「日本文明圏に入ったシナ」について述べる前に比較対象として「日本語の漢字」について考察しておくことが相応しいのでは、と思ったからである。
本記事では、いよいよ本書の漢字についてのうち「漢人の精神世界」について述べていく。
前回までの概要
秦の始皇帝が漢字と漢字文化の運命を決めた
秦の始皇帝までは、漢字の読みは特に定められていなかったのだが、儒家同士でのコミュニケーションのスムーズさを見て、彼は書き言葉の統一を図ることを思いつく。秦の始皇帝は
漢字の一字につき、一音一音節と決めた
始皇帝がこう決めたことがその後2200年の漢字の運命を定めることになった。漢字の音は意味ではなく「その漢字の名前」程度の意義しかもたないことになった。さらに漢文には時制もなく品詞も活用もなく、つまり文法がない。文法がない文を読み解くためには用語用例集が必須である。
そこで、用語と文体の模範を古典に求めた。いわゆる四書五経である。その系譜は、現代の毛沢東選集につながるという。用語と文体の模範テキストはいわば漢字という文字を扱い読み書きするための暗号表である。
この暗号表をくまなく暗記したものだけが、自由に読み書きができる。
この人々を「読書人」と呼んだ。彼らは幼い頃からわけもわからず、暗号表である模範テキスト=四書五経を暗記させられる。そして散々苦労して文字を操る技を身につける。こうした努力ができるのは一部の人だけだ。
巨大な帝国は官僚を必要とする。文字を自由に操れるテクノクラート=技術者集団=官僚。その過酷な選抜試験。科挙である。こうしてシナでの漢字文明が育ちゆくことになる。
漢字は何へのアクセスキー?
日本人にとって漢字は経験へのアクセスキー
前回の「日本語の漢字」というほんのり考察の中で、日本人にとって漢字や文字は、日常生活の経験というデータベースへのアクセスキーとなっているのでは、という仮説を提案した。それはごく小さい頃から育まれ、年齢が上がるに従って、文字の量や経験の抽象度が上がっていく。この漢字の作用は読みが複数あることから生じるのでは、と推測している。それは日本人にとっては、ごく自然に行われることで、取り立てて困難を感じることではない。日本語を大人になってから学ぶ外国人にとっては学習上の障壁のように思われる「漢字の読みの多様さ」も、実は幼少時から日本語という言語空間にいる日本人にとっては、かえって文字の意味への理解を深め、自在に読み書きできる基礎になっていると思われる。
漢人にとって漢字は漢語データベースへのアクセスキー
一方、漢人の漢字にまつわるデータベースは、日常生活での経験という意味合いは薄く、標準テキストからなる用字用例集を丸暗記することで直に作られる。そうでなければ、漢字・漢語の読み書きはおぼつかないのだ。そして漢字は日常生活から乖離している漢字・漢語データベースへのアクセスキーとなっていて、それが、岡田のいう漢人の精神世界を作り出しているのではないか、と仮説を立ててみた。この仮説の上で漢字が生んだ漢人の精神世界を見ていくと、より理解が深まるような気がしている。みなさんは、どういう印象を持たれるだろうか?よかったら一緒に見てみてください。
目次
漢字が生んだ漢人の精神世界
漢字・漢文が通じる地域がシナ
前々回に述べたことであるが、シナはヨーロッパのような集合体であり、その事情は近代国家である中国でも変わっていない。「漢語とふつう呼ばれているものは、じつは多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽いかぶさっているにすぎない」p49。現代中国の各方言間では「語彙や文法の面に加えて、とりわけ音声の面での差異が甚だしく、コミュニケーションに障害が生じてしまう…」NHK出版 これならわかる 中国語文法: 入門から上級まで p12。岡田は現代中国語の事情を以下のようにいう。
では、テレビやラジオのない時代の漢語はどうだったのか?
逆にいえば、漢字が通用すれば、そこは外国ではない、という認識らしい。
岡田は渡部昇一の著作を例に引き、同様のことを述べている。
つまりシナ大陸内ではたとえ話し言葉が通じなくても、漢字や漢語が通じ使える地域=中国という図式が成り立っているので、その法則を外国である日本にも応用している、ということなのである。(そういうC国人の思考パターンを知ると列車や道路に簡体字表示を併記しているのは大変危険なことだと、私などは思うのだが…)。
そしてそうした状況を岡田は次のようにまとめている。
漢語は誰にとっても外国語
漢字は「一字一音一音節」と秦の始皇帝が決めたことによって、読みはその漢字の名前程度の意義しかなくなってしまった。そのためシナ人たち(現代中国人含む)は外国語を学ぶように「漢字文化」を学んでいく。
孫文の右腕に戴伝賢という知識人がいた。 彼は自国で伝統的な古典教育を受けた後、その当時の知識人たちと同様に日本に留学することになる。
このやり方は、彼が幼い頃、漢籍をマスターするために受けた「素読」の訓練そのものだった。
では、彼はどのように漢籍をマスターしていったのか?
なんだかヘレンケラーの「ウオーター」に匹敵する体験だ!
つまり、これは日常生活から乖離している漢字・漢語データベース=標準テキスト=漢籍を覚える困難さと、そのデータベースへのアクセスキーである漢字・漢語の使い方を理解した瞬間を描いているエピソードと読み替えることも可能なのではないだろうか?
岡田が言うには、中国語の方言には日常語に語彙が入り込んでいるので、一見、方言のように見える。しかし、北京語ですら、普通話にはない、漢字で表すことの出来ない言葉があると言う。
漢語は誰の言葉でもない視覚に基づく人工言語ので、シナ大陸を一つにまとめるのに好都合であった。岡田は漢字の機能を下記のように総括している。
そして、漢字は「言葉」の音に結びつかない通信手段であることの利点と欠点を以下のように述べる。
さらに表音文字を持つ点で日本人の有利さ、持たない中国人の不利さを
まとめている。
これは日本人は漢字を仮名文字とともに日常生活の経験へのアクセスキーとして使用していることと、中国人が漢字を日常生活から乖離している漢字・漢語データベースへのアクセスキーとして使用していることの差を述べているように、私には感じられる。
日常生活とは切り離された言語体系
岡田が何度も言っているように、漢語は視覚的な漢字を元にして作られた皇帝の商業ネットワークのための人工言語だ。そして、習得はどの漢人にとっても外国語を学ぶような努力を要するものであった。その結果、何が起きたかというと…。
文字言語の極端な発達によって、音声による自然言語が貧弱になる。そんなことが、ありうるのだろうか?
岡田は、漢字の読み方の統一への工夫(切韻など)と印刷技術によって書物を学ぶ層が拡大したことが関係している、という(これらは7世紀から11世紀にかけて起きた)。
岡田はさらに続ける。
上記の引用から推測・解釈できることは、視覚的のみならず音声としても漢字・漢語データベースを構築しようという試みと、音声だけではとてもこのデータベースは構築しきれないこと。また構築されたとしてもそもそも漢字・漢語データベースは日常生活から乖離した膨大な体系として存在しているために、個人にとって一番身近な日常である感情を自由に表現するためのアクセスルートが未だ十分開拓されていないということ、なのではないだろうか?
wikiによれば『紅楼夢』は「ロマンではなく、深窓の令息令嬢の心理のひだが繊細に描きこまれている」とのことなので、恋愛の駆け引きめいたことや相手への思いやりや共感などが書かれているわけではないのかもしれない。岡田のいうように「感情を表現する文字はほとんど見られ」ないのだろう(そこは研究者である岡田を信頼するしかない)。
上引用内で述べられていることは、表音文字を言語体系の中に含む言語は、音声から積み上げられる日常的な経験と切り離されることがない、だから自由に感情表現が可能であり「情緒をきめ細かく表現する大量の語彙」が存在する、と説明し得るのではないか?日常的な体験から切り離されてしまうと、第三者的な視点に立った事物と行動しか描写できなくなるのである。つまり主観の延長上にある共感への可能性が極端に狭まるのではないだろうか?
もちろん、これは検証されていない仮説である。だが、シナ語とそうでない表音文字を含む言語体系の言語との違いをある程度、説明し得る仮説であるように思うのだが、いかがだろうか?
視覚的=文字による言語体系
ヨーロッパ人は「中国語は書かれた言語だ」といったり「漢人は空中に指で文字を書きながら会話をする」とその観察した様子を報告している。
私が子どもの頃はそうではなかったが、90年代ぐらいか2000年代ぐらいからだろうか?日本のテレビ、特にバラエティ番組や素人が出てくるような番組で、画面に字幕が入ることが多くなったのは。それ以前は、テレビで字幕が入ることはなかったように思う。しかしかつても、また現在でも局アナがキャスターを務めるニュース番組や女優俳優が活躍するドラマや映画には字幕は付いていない。彼らは滑舌や発音などについてのプロである。彼らの発する言葉が理解できない日本人はまずいないだろう。同音異義語の問題があるので「勘違い」はあるかもしれないが。プロはそれも含めて勘違いさせないような言葉を選んだり、言い換えをしたり、脚本家は脚本を書いているのでは、と思う。
だがシナでは事情が違うらしい。岡田は「この言葉と文字の乖離、言葉に対する文字の優越という現象は、シナでは秦の始皇帝の統一と同時に始まり、現代でもまったく変わっていない」と述べた後、次のように続ける。
自分の国の中で、自国のドラマを見たりニュースを見たりするときに、字幕に頼る。そうした状況は日本人には想像しずらい。それだけ日本人は音声のみでも日本語を十分理解できるような環境が与えられ、教育を受けてきた、ということなのである。それは幸せなことなのだ。
かつては空中に字を書いて、現在では字幕に頼って情報のやり取りをする。岡田によれば、それがシナという地域なのである。
書き言葉と話し言葉の相互作用により精神性が培われる
岡田は漢字が生んだ漢人の精神世界を次のような言葉でまとめている。
私にはシナ語の素養がないので「漢文は漢人の理論の発達を阻害」したかどうかは、わからない。が、どうやら感情生活を単調にしたのは、生活上の経験から乖離した漢字・漢語データベースというものが関わっているらしい感触を得ることはできたように思う。
そもそも漢文は、皇帝の商業ネットワークを支える官僚のための言葉なので、感情ではなく、事柄の記述に向いているのだろう。
岡田は、情緒は世代を超えて育ちゆくものだ、と述べている。
そして岡田によれば日本語、および日本人の情緒にはたっぷりとした歴史的蓄積があると。
シナには恋愛が存在しない
岡田はいう。
日本人からすると、恋愛を2000年間知らなかった、という感覚がよくわからない。だが岡田によると「言葉なきところに、思想も感情も育たない」。
私は知らなかったのだが、清朝時代の有名な恋愛小説に『紅楼夢』というものがあるという(すでに上で少し紅楼夢について言及している)。長編小説で、よく源氏物語と比較されるらしい。だがこの二つは似ても似つかぬ小説なのだという。
光源氏はプレイボーイで何人もの女性と契りを交わす。交わす和歌が二人の関係性や互いへの想い、それぞれの心情を鮮やかに描き出す。だが紅楼夢の主人公、賈宝玉が具体的に関係を持つのは腰元の花襲人だけだ。使用人に手をつけるのを恋愛と呼べるだろうか?かろうじて恋愛と呼べるかもしれない従姉妹との関係にしても極めて軽い扱いだそうで、『紅楼夢』は持ち上げられ過ぎている、という。
もう一つ『金瓶梅』も有名な小説だそうだが、行為のみが描かれている好色小説で「男女間の情のやりとりとか駆け引きなど、恋愛に不可欠な心理描写が登場する余地がない」のだそうだ。
岡田はいう。「恋愛は、男と女が対等な立場に立って行う、一種の知的ゲームであり、単に肉体関係を結ぶだけでは、恋愛とは呼べない」。
だがシナでは二つの点で男女が対等になることはあり得ないのだそうだ。一つは儒教の教え。もう一つは漢文だ。儒教では男女七歳にして席を同じゅうせず、だ。出会いがなければ、そもそも恋愛に発展しない。だが、漢文が問題とは?
なんと!ラブレターが交わせないとな!そして、現代日本のオタクたちは二次元彼女に現を抜かすのだが、シナの読書人の人々にとって恋愛小説の女性像は神や化け物になった。「漢詩が書けて、本が読める女性などシナにおいては現実味がなさすぎて、読者は白けてしまう」からである。
心が通い合うのは家族だけ
シナには宗族という人々がいて、祖先崇拝で結びつく、父系の氏族集団なのだそうだ。この宗族以外の人々が信頼関係を結ぶのは難しい、と聞いたことがある。
米国在住のチャイナ系小説家は、下記のようにいう。
つまりいったん、自分の家族、自分の村から出てしまえば、言葉は通じなくなってしまうのだ。そうであれば「心が通い合うのは生活を共にする家族だけ」であることも無理はない。
だが、日本だって、谷筋が違えばもう言葉が通じない、と言われる地域がある、と聞いたことがある。隣の島に移動すると、その方言や語彙がわからない島嶼地方がある、とも。それでも「日本語」という範囲にかろうじておさまっているのは、語彙や発音が違っても、文法的な枠組みはほぼ同じだから通じているのでは、と思うのだが(あるいは共通語の習得が比較的容易…)。日本国内でも、もしかしたら「言葉が通じるのは家族だけ」と寂しい思いをしている人がいるのかもしれない…。
新聞購読者数から見る識字率
上で見てきたように、ほんの少し前まで、シナでは文字は一部の知力と財力と時間のある人々のものであった。そうでなければ、膨大な標準テキスト(例えば四書五経など)を暗記して漢字を使いこなせるようにならなかったからである。
だが現代中国での事情も、もしかしたら、そんなに変わらないのかもしれない。
それでは、岡田はどれほどだというのだろう?
比較対象は少し古いが、日本の新聞発行部数である。
つまり1974年に日本の新聞の発行部数は約三人に一部の割合であった。
では、現代中国の新聞発行部数は?
つまり1972年の中国の新聞の発行部数は二百数十人に一部の割合であった。
日本の新聞発行部数と比較すると、日本の方が70倍新聞が読まれていることになる。2014年の中国の統計も載っているが、さほど割合は変わらない。日本は70年代には一億総中流と言われていた。現代中国でのエリート層である共産党員は大体10%ほどらしいので、共産党員より、さらに少ない人数にしか新聞は読まれていない。本当の識字率はどのくらいなのだろう?
つまり…それだけ標準テキストを丸暗記し、漢字・漢語データベースを構築するのは難しい、ということなのではないだろうか?
ここで、思い起こされるのは亡くなった李克強首相が言っていた「中国には月収1000元(約1万5000円)の人が6億人もいる」という事実である。
どうやっても貧困から脱することのできない層が一定数いる、と言っているのではないか?(推測です)それが全人口約14億人中、6億人。だいたい4割強である。この人たちは、多分漢字文化についていけない人たちで、多分映画を楽しむことができない層なのではないだろうか?(推測ですって)
もちろん今はテレビもインターネットも、各種動画投稿サイトもある。書き言葉にしか頼れなかった昔とは、違う。普通話を理解する人もずっと以前よりは増えただろう。だが、思い出して欲しい。映画やニュースにさえ、字幕をつけるお国柄なのである。字幕がついている映画を耳でも視覚的にも楽しめない層が一定数いる、ということなのではないだろうか?(推測…)
中国は人口ボーナスで品物が飛ぶように売れる。日本の高度成長期のように。
それは幻想なのではないだろうか?(はい、推測)
日本は高度成長期、農村も都市部のように潤っていった。農村が貧しい。そういう印象は日本には、ない。JAL パックでヨーロッパに団体旅行に行ったのは誰よりも農協だった。もちろん現在では過疎化で立ちいかない、ということはあるだろうが。今後の農政政策次第ではわからないが。選択肢が増えたので貧しかったり食べていけない地域からは離脱する、ということはあるだろうが、貧しいまま土地にしがみつくということは結局日本人はしなかった。教育を受けて都会に出ていくという道を選択した人が大勢いた。
もしかしたら現代中国には、そういう選択肢がない、あるいは極端にチャンスが少ないのかもしれない。「一字一音一音節」を強いる漢字文化のために。(す…)
上記は、単に報告者の戯言だ。だが、本書を読むと容易にそう想像できるのだ(そう、想像です)。
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
本書『シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))』
『皇帝たちの中国 始皇帝から習近平まで』
お手頃価格で、お手頃サイズだが、私はあまり面白いと思わなかった。あまりにダイジェストすぎる。本書ですら、読んでみればダイジェストのように感じてしまう。どれだけ深いんだ、岡田史観…。
弟子で妻の宮脇淳子氏はモンゴル研究の専門家。結構YouTube番組に出演している。検索すれば、他にもたくさんある。面白く視聴できるものばかりである。オススメします。
渡部昇一氏
本書で引用しているシナ語に関するエピソードあり。
noteにお祝いしていただきました。
よかったら記事を読んでみてください。