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塩野七生『ギリシア人の物語Ⅱ〜民主政の成熟と崩壊』
塩野七生による『ギリシア人の物語』の第二巻。アテネが繁栄へと駆け上がる昇り坂の第一巻と違って、下る一方の第二巻は、特に後半重苦しい。アテネ人は自分たちが下っているという自覚があったのかどうか分からないが。
前半はアテネの民主制が最も良く機能した時代として、ペリクレス時代を描く。民主制がこの事実上のリーダーの独裁的な采配によって良き方へ導かれていたというのが皮肉。
後半はペリクレスの死後、民主制が衆愚制となっていく様を克明に描く。ペリクレスの後は凡庸なニキアスでは治めきれなかった。歴史に「もし」は無いが、「もし」ペリクレスを父代わりに育ったアルキビアデスがその後を継げていたら、つまり、アテネ人たちが彼を自分たちのリーダーとして選び続けていたら、全く違う結果になっただろう。第一巻でスパルタがパウサニアスを殺してしまったように、アテネは「育ってしまったライオンの子」であるアルキビアデスを潰してしまったのだ。衆愚制によって優れたリーダーが葬り去られ、国が壊滅へと向かう。
また、都市国家単位で言えば、コリントやテーベが小さな都市国家感覚を捨てて、ギリシアという視点に立ってアテネを支えていたら、と思わないでもない。視点の近さ狭さ小ささは国家にとって致命的だ。
さらに、スパルタの奇妙な理屈でアウトサイダー的に軍を任されたブラシダス、ギリッポス、リサンドロスらのたたき上げの将らも、アテネ側の視点で書かれた本作では敵役だが、なかなか魅力的だ。本国スパルタからすれば使い捨ての駒でしかなかった彼らが、寄せ集めの半端な兵を連れて、冴えた頭脳と敏捷な行動力で大国アテネを破滅へと追い込んでいく。彼らの手腕は見事だ。勝って当然、負ければ死罪というスパルタの扱いに、(特にペルシアに接近したリンドロスは)反感を持っていたのではないか、と思わせる記述にもわくわくさせられた。
読み終わって呆然の無惨な国家解体の様だが、塩野の筆はやはり政治、特に戦争に向けられる時冴える。文化面においては少し食い足りない思いがした。
(以下は筆者の覚書である。)
〈「求めない」という生き方は、軍事的経済的に求めない、というだけでは済まない。知的にも「求めない」、ということになってしまうのである。清貧を説く人は、この辺りの事情までわかって、言っているのだろうか。〉P108
「ペロポネソス同盟」と「デロス同盟」の違いを述べる際、「変わらない国スパルタ」「変わる国アテネ」、もしくは、「求めなかった国スパルタ」「求めつづけた国アテネ」の違いを述べた箇所の最後。塩野はスパルタを頑迷、アテネを柔軟と捉えており、折にふれてその見方が披瀝される。
最後の一文はこの考察によって生じた辛口の一言。
〈この地方に起り始めていたアテネへの不満を、現代の研究者の中には、ギリシア人に強かった自主独立の気運による、とする人がいる。
しかし、不満とは、高邁(こうまい)な精神によって起ること実に少ないのが人間世界の実情で、実際はミもフタもない事柄から起るものなのだ。カルキデア地方の住民の不満は「デロス同盟」に加盟するのは良いとしても、分担金を支払うのは嫌だ、ということから発していたのである。〉P128
まさにミもフタも無い、現実そのものの姿。それを描くのは塩野の真骨頂だ。
〈正規軍は勝たなければ負けだが、ゲリラは、負けさえしなければ勝てるのである。〉P130
ベトナム戦争を思い出させる一行だ。
〈また気質的にも二人(筆者注:アテネの政治家ペリクレスとスパルタ王アルキダモス)は、似ていたのではないか。
歴史家ツキディデスが紹介するこの二人の演説を読んでいて驚くのは、神々や神託や運命のような事柄への言及が、まったくと言ってよいほどに無いことだ。
運命も、その多くはわれわれ人間にかかっている、とでも言いたいかのようで、これが二千五百年も昔の男の口から出たことかと思うと、徹底したそのリアリズムとバランス感覚には驚嘆するしかない。〉P136
そして作者塩野七生はこの徹底したリアリズムとバランス感覚を何より重視する書き手なのだ。
〈ペリクレスが死んだ年、ソフォクレスの悲劇『オイディプス王」が上演された。
予言によって定められた運命に逆らう想いで一生を生きてきたのに、結局は予言されたとおりの一生をおくってしまった人間の哀しみを、深く極めた傑作である。
ペリクレスは生涯にわたって、運命とは神々が定めるものではなく、われわれ人間が切り開くものだと言いつづけてきた人である。だが、その最後になって、考えていた「大戦略(グランド・ストラテジー)」は、彼自身の死によって中途での挫折を強いられる。これが運命でなくて、何が運命であろうか。〉P175
彼の大戦略は「都市国家(ポリス)アテネの繁栄の維持」であった。彼の死と共にまさにアテネの繁栄も終りに向かう。『オイディプス王』とペリクレスが重なって見える。
〈ペリクレスが(筆者注:自分を非難する)男にいっさい応じなかったのは、言論の自由を尊重したからではない。
言論の自由を乱用する愚か者に対する、強烈な軽蔑ゆえの振舞いである。怒りもしなかったのは、この種の愚か者の水準まで降りていくのを、拒否したからにすぎなかった。怒りとは、相手も対等であると思うから、起こる感情なのだ。〉P176
人生訓的にも深く響いた箇所だ。
〈ローマ人は運命を、人事をつくして天命を待ち、決まった後はそれを従容(しょうよう)として受け入れるもの、と考えていたからである。
反対にギリシア人は、いかに人事をつくしてもどうにもならないのが運命だ、と考える人々であった。ギリシア悲劇はこの命題のオンパレード、という感じさえする。〉P226
ギリシア文明よりはるかに長くローマ文明が続いた理由のように思う。日本人はどちらかというとギリシア人に近いかも?
〈なにしろ、真・善・美を言い出した民族なので、そのギリシア人にとっての容姿の美は、神々が授けてくれた贈物なのである。つまり、神々から愛されているという証拠なのであった。
ちなみに、これより登場するアルキビアデスは、(…)この男を語って、彼の美貌に言及しなかった史料は一つも存在しない。〉P227
アルキビアデスはアテネの名門の生まれで、大金持ちで、美貌に恵まれ、陽気で豪胆な性格、さらに哲学を愛する明晰な頭脳と、世の中の先を読む力を持ち、戦術の才に長けていた。それでも政治的に報いられず、悲劇的な最期を遂げる。
たしかに本冊所載のスパルタのモザイク画に見られる彼は、2500年後の日本の少女マンガにでも出て来そうな美形だ。他の資料は白黒なのに、作者はこの肖像画だけはカラーで収録している。
〈しかし、アルキビアデスは(筆者注:やるべきことを全てやったという思いで死んでいったペリクレスやソクラテスとは)違う。
心身ともに二つに引き裂かれた状態で生きたこの男は、自分自身との間に「平和」を確立することが、ついにできないままに一生を終えるのである。
哲学と政治の間で引き裂かれたままで、終わってしまうのだ。哲学と政治は別物で、目的とするところがちがうのだから、その間で引き裂かれる必要などはなかった、と私ならば考える。〉P263
アテネの繁栄に功績があったのはペリクレスだが、作者の筆が乗り、冴えるのはアルキビアデスについて語る時だ。読む方もずいぶんアルキビアデスに肩入れして読んでしまうが、もちろんこれは塩野の人物造形であることは意識しておかなければならない。
〈草稿の段階で私の文を読んだ担当編集者が、ソクラテスってヤバイですね、と言ったが、ほんとうにソクラテスは、ヤバイ賢者でもあるのだ。
これもまた、『饗宴(シンポジオン)』読んで学び知ることの一つかもしれない。〉P265
ところが筆者は本書を読んでもソクラテスのヤバさがピンと来なかった。プラトンの『饗宴』を読んでみるべきかもしれない。しかし、ソクラテスが滅びゆくアテネの時代の人だということが分かっただけでも収穫。記号でしかなかった哲学者の名前が突如人間の姿で目の前に現れた思いだ。アルキビアデスはプラトンの『饗宴』に登場するだけではなく、プラトンには『アルキビアデス』という、ソクラテスと少年時代のアルキビアデスとの対話篇もあるとのこと。何やらアリストテレスとアレキサンダー大王との関係も思わせる。
〈残念なことではあるけれど、人類は、戦争そのものが嫌いなのではない。長期戦になり、しかも敗色が濃くなった戦争が嫌いなのである。〉P371
かなり過激な意見。
〈風刺喜劇には鋭く突き刺す力はあっても、新しい時代を創造していく力はない。批判と創造は、性質の異なる能力になるからである。〉P378
ギリシア悲劇の作家アイスキュロス、ソフォクレス、エウリビデス、さらに風刺喜劇作家のアリストファーネスの作品についても本書から知ることは多かった。アリストファーネスはソクラテスやアルキビアデスの同時代人であり、彼の『蛙』にはアルキビアデスについての、ディオニソス、アイスキュロス、エウリビデスの会話があるということだ。
今から三十年ほど前にギリシア旅行をして、古代の劇場跡でギリシア喜劇を見た。アリストファーネスの『雲』であったが、行き当たりばったりに参加したツアーなのでもちろんストーリーは知らない。ギリシア語が分かる訳もない。笑い転げるギリシア人たち(2500年前の喜劇、いまだ現役!)の傍で、私はツアー参加者のアメリカ人女性に「悲劇なら良かったのに」と言って大いに賛同を得た。などということも思い出した。
新潮社 2017.1. 定価:本体3000円(税別)