『短歌研究』2021年2月号(1)
①わが裡の火はこれほどに赤くなし紅葉を見て逢はずに帰る 栗木京子 心に迫る歌。自分の裡にある感情の強さが、紅葉の赤さに及ばないと捉える。そして逢いたい人に逢わずに帰る。この抑制の利いた行動と感慨。自己に向ける視線が知的で清潔だ。本当は紅葉より赤いのだ、きっと。
②Google mapは教へてくれぬ私のではなく人類の現在地 香川ヒサ グーグルマップで自分の現在位置を調べている。上句下句の切れ目なので、「私の」で口調も意識もいったん切れる。その後の句跨りで言ったことをひっくり返す。お見事。そして読後、確かに、と内容の深さに納得。
③伏線を回収せずにとぢてゆく生ばかりなり霜月、師走 栗原寛 小説や映画なら伏線は必ず回収される。されないとその作品は完成度が低いと感じてしまう。そして人は、人生もそのように感じようとしてしまうのだ。人生に点々と起こる出来事はただの出来事で物語の伏線ではない。
無理に線でつないで物語にしようとすると必ず歪みが生じる。人生の途中にある伏線に見える出来事は、点のまま回収されない。出来事は出来事で放置したまま、人の人生は閉じてゆくのだ。それでいい。冬はそれを強く感じる季節。
④ユキノ進「『水中翼船炎上中』という冥界巡り(前編)」〈(この歌集が)大きな欠落を抱えた青春不在の歌集であることを明らかにするためであり、個人的な追想による半生記としてはあまりにいびつで不自然であることを示すためだ。〉〈とても不自然でグロテスクな影を帯びている。これは自身の半生を振り返った歌集ではない。〉
いやー面白い、この論。久しぶりに短歌評論読んでドキドキしたわ。ページを繰る手が止まらない。ユキノの指摘する欠落は確かに気づかなかった。穂村弘自身が歌集に挿入したメモをよく見れば分かるのかも知れないが。そこを指摘してこそ評論だと思う。
私の思うことは二つ。ユキノは穂村が周到に用意した、歌集の見取り図を看破したのかも知れない。が、それだけでは推理小説を読んで作者とトリックについて競っているのに近い。歌集ならではの、作者が意図していない何かをユキノは見つけただろうか?また、一首一首の持つ感動はどうか?後編に期待。
⑤松村由利子「ジャーナリスト与謝野晶子」〈(晶子は)幼い子であっても「一個の自存独立する人格者」として尊重する姿勢を見せた。晶子のこの考えは当時、非常に新しかった。〉今も子供の権利は完全に尊重されてはいない。子供の意志・権利より大人の事情が優先されたりする。
〈彼女にはまだそこに存在しないものを見る力があった。すべての人が働く社会、労働を分かち合うシステムを夢見たように、晶子は子どもたちを楽しませ心を豊かにする読み物があるはずだと考えていた。〉今よりずっと女性や子供の権利が保障されていなかった時代に晶子が考えていた事。心に染みる論。
2021.2.19.~21.Twitterより編集再掲