堀田善衞『定家明月記私抄続篇』(ちくま学芸文庫)
藤原定家五十歳から八十歳までを、日記『明月記』や、その他文献を元に辿る。この続篇では、鎌倉将軍源実朝に『新古今集』や『万葉集』を送ったり、歌の指導をしたりする代わりに、自分の荘園の権利を保障してもらうなど、歌だけではない繋がりを持っている。最大の政治的出来事は承久の乱だろう。日本史の教科書に数行程度書かれるこの乱が、朝廷と幕府の関係を決定的に変えただけでなく、京都の朝廷文化と日本文学に壊滅的な危機をもたらしたことが、一巻を通じて伝わってくる。この乱に、蟄居中の定家は関係を持たず、(また「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と呟いている)、乱後に権力を掴んだ九条家・西園寺家のお蔭で正二位まで官位を極め、経済的にも安定している。歌人としての絶頂期は過ぎながらも、官吏として、また写本による文化の継承者として生きた後半生を描く。装幀は安野光雅。後書き井上ひさし。
以下は気になったことのみ。
〈「僕ノ如キ衰老ノ賊翁、寧(イヅク)ンゾ此ノ恩有ランヤ。」〉二十年近く望んできた官位を五十歳で得た時の、へりくだった記述。「僕」が「しもべ」という意味で使わているのか「一人称」として使われているのか、疑問に思った。普段の定家の一人称は「予」、ただし一人称が使われる頻度は高くない。このように非常に遜った時に使われながら、だんだん一人称として使われていったのかもしれない。(吉田松陰は他の一人称と共に僕を使っている。)
〈その準備のためには、(…)その他もろもろの公事の記録が必要であり、記録はすなわち諸家の日記であったことから、これを借りる必要が出て来るのである。〉何でも前例通りにしなければならないことから、日記という記録が必要になる。公家が日記を盛んに付けていたのはこの理由による。日記が後世の財産となったわけだ。そしてそれを貸すの貸さないの、という「狭量小心な貴族たち」のやり取りがあったようだ。
〈「少将為家、(…)頗ル骨(コツ)ヲ得ルノ沙汰アリ。」骨(コツ)とは、天成の才能とか奥儀、勘などの意で、〉コツをつかむ、の語源はこれか。為家は定家の嫡男。残念ながら、和歌ではなく、蹴鞠のコツを習得したようだ。
〈この家集は一旦完成後、その後の歌を増補して今日に伝わる。ちなみに、拾遺(シフヰ)とは、侍従の唐名である。〉定家の自選全歌集名は『拾遺愚草』。〈この頃(五十三歳頃)に定家は、後に定家仮名遣いと呼ばれるようになる小冊子を書いて人に示している。当時すでに、〈お〉と〈を〉は同音ということで混同され、〈え〉〈ゑ〉〈へ〉、〈い〉〈ゐ〉〈ひ〉も混同されて来たので、定家はせめて和歌物語においての正統な仮名使用法を定めようとしたものであった。〉日本語の仮名遣いの問題の古さが分かる。
〈たとえば定家や後鳥羽院などにおいてピークに達し、それ以上の登高が空気が稀薄になって―ということは、本歌取りにつぐ本歌取りで―不可能とあれば、それはもう一度、麓の民衆に戻されなければ再生は不可能である。それが民衆に戻されて連歌や俳諧に変形して再生するまでには、芭蕉の出現まで四百年以上も待たなければならない。〉
〈この三十一文字による短詩形文学は、要するに叙景と叙心という二つのテーマをめぐって成立するものであり、後者の叙心の方は、個人個人の心情と思想にかかわるものではあるが、その表現の範囲はきわめて限られたものであり、あわれという一語によってあらわされることの出来る、詠嘆を主とする。従ってその表現範囲を拡大するためには、そこに叙景がどうしても加わらなければならない。しばしば叙景は叙心を導き出すための、ただのきっかけにすぎないことがある。いや、その方が多いくらいのものである。/とすると、叙景の方が、実はほとんど無意味であって叙心のための暗号と化することさえ珍しくはなくなるであろう。〉そしてその暗号が、解釈の多様性、露骨に言えば誤読へと繋がっていく、と著者は説く。
〈不吉なり―それは感性が的をぴたりと射て、その「不吉」なるものの実在実存を認めたとしても、説明は不可能である。頽廃、デカダンスと言う所以である。〉
〈人々が和する歌としては、つまりは和することが可能になるためには、そこに和することの出来る「景気」、一定の景色、気配、詩的雰囲気、あるいは活気、活況というものがなければならず、またそこにたとえ最小限にでも、「ことはり」、筋道、道理、すなわち論理があってくれなければならぬ。その論理は、言うまでもなく詩的論理であって、世間並の理屈などでなくていいのではあるけれども、最小限、ある程度のことわりを持っていてくれなければ、他の人がこれに和して別の歌を詠む事が不可能となる、というのである。〉「後鳥羽院御口伝」より。
〈宣戦布告への過程において、後鳥羽院によってもっとも重要視されたものは、兵力の準備もさることながら、実は義時調伏のための修法であったようである。(…)国内において至尊なる者であり、上無き者である、絶対の天皇が神仏に祈って調伏を期するとあれば、成功しない筈はなかったのである。(…)されば戦いの勝利は、神仏によって確証されている。〉平安文化を終わらしめ、朝廷文化を破壊した承久の乱。それを画策した後鳥羽院は兵力に於いて絶対の差のある鎌倉幕府に対して、武力以外のもので戦おうとした。著者の筆は、所々に、太平洋戦争時の宣戦布告の詔勅を読者に思い出させる記述を置く。
〈一天皇三上皇が一瞬に消えて、京都は真空状態どころか、宮廷文化も何もあったものではない。(…)その人工性がピークに達したところで、潰滅、である。/かくて日本文学といわず、日本文化全体の決定的な転回点が来る。文化はいま一度民衆に投げかえされて、そこで再生しなければならなくなる。〉
〈為家はその邸でたびたび連歌の会を催し、定家も、おそらくは喜んでこれに参加をしている。京都はすでに連歌が大勢を占め、ここでも定家は「志狂ノ数奇カ」などと言っている。〉鎌倉時代にはもう和歌より連歌なのだ。
〈樹木や花卉はすべて霊性をもつものであってみれば、そこから発する、いわゆる幽玄性、あるいは妖艶美はすべて歌の世界にも通じるものである。/しかもたとえば(西園寺)公経の北山の豪華な別荘で行われた仏会が「金銀ノ外、他無シト云々」といわれるように、その美が反社会的反道徳的なものでさえありうる時に、草木は、たとえ妖であり艶であるにしても、四季のめぐりに於て転生顕現するものであり、思索にまで昇華出来るものである。従ってそこに詩歌への内的な契機もまた見出しえたのである。〉定家は草木好きであり、それは世間にも広く知られていたという。
〈後鳥羽院側近の没落とは逆に、定家の方は、九条、西園寺両家の想像を絶する隆盛と、為家の妻の父、宇都宮頼綱という関東の豪富の後ろだてを得たことによって、その老後は、すこぶる安定したものになりえていた。〉
〈乱世二逢ハザレバ―存外に正直、とでも言うべきか、承久の乱がなくて後鳥羽院がもしまだまだいたとしたら、こういうことはありえなかったであろう。〉後鳥羽が隠岐から帰って来る、順徳が佐渡から帰って来るというような噂は常にあったようだ。その度に京都の公家たちはざわついたのだろう。
〈宮廷に漸くまた詠歌の気風がよみがえって来ていたのである。〉承久の乱以降、宮廷文化は衰退していた。これは明治維新後の宮廷文化の衰退に近いものを感じる。
〈天皇が天皇として物心がついて来ると、つい勅撰集なるものを編纂したくなるもののようである。自分の治世の華としたいものであったろう。〉後堀河天皇、十九歳。この場合、承久の乱で流刑になった前代の三上皇の歌をどうするか、鎌倉との折り合いもあったようだ。結局、定家が一人で撰をすることになる。
〈(定家の)歌の調べも、平明なものになって来ていて、後鳥羽院時代の、手の込んだ晦渋な象徴歌といった趣は、潮の引いたかのように引いて行ってしまっている。〉良し悪しの話ではないが。
〈第三十四条、姦通の罪科に関して。姦通ということが、武家のとりきめとして、明らかに”姦通”として認められ、なおかつ姦通が、”罪科”である、としたことは、ここに、色好み文化としての京文化に、決定的な終止符を打つものであった。〉鎌倉幕府の定めた御成敗式目は、武家の論理がスタンダードになったことを示したものであった。平安時代から続いた、京都の公家の文化が公的に終わったと言える。色好みという名の元の、アナーキーな乱婚文化が、武家によって終焉を迎えたのである。
〈(…)定家は、いまは新勅撰集の撰歌に専念している。(…)この春の頃から、定家邸は、ほとんど毎日と言わねばならぬほどに、いわば千客万来と言いたくなるほどに、撰に入れてもらいたい人、あるいは伝(つて)を求めて定家旧知の人々に託した歌が届けられる。定家の侍医までが人から託された歌をもって来る。現存歌人を雑人扱いにするの記をしるした日の翌日には、家長をはじめとして五人もの客人がある。公卿も来れば、ただの役人も来、僧も来れば、関東武士の歌を託された者も来る。〉アンソロジーを誰が撰するか、また、誰の歌を入れるか、落とすか。いつの時代も大問題だ。勅撰集は究極のアンソロジーだ。現代なら「売れるかどうか」の問題があるが、この時代はそれは無く、代わりに「政治」が関連してくる。ただ、いずれにしても、歌だけで選ぶことはできず、人間関係が多いに影響してくるし、撰をする者が絶対者になってしまう実情は今も同じだろう。
何となく歌だけを読んでいた「小倉百人一首」。今後、作者と、撰者であった定家との、人間関係を確認しつつ味わってみたいと思った。久しぶりに堀田善衞の文章に浸った時間だった。
ちくま学芸文庫 1996.6.(原版は新潮社 1988.3.) 1100円+税