塩野七生『皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上』(新潮社)
13世紀、神聖ローマ皇帝として生きたフリードリッヒ二世の一生を描く。中世末期に生まれたこの人物が200年後のルネッサンスの精神はおろか19世紀の中央集権国家の近代君主の精神も先取りしていたことが分かる。いやむしろ、近代人を越え、現代人の中でも特に意識の高い人に近い。信仰の時代にあらゆる狂信・妄信の類と無縁で、理性と合理的精神にのみ従って生きた人。あらゆる偏見や思い込みから自由で、教養と判断力と冷静さを併せ持っていた人。古代の理想を蘇らせ、また、誰にも思いつかない新しいことを考え出し実行した。同時代人から理解されなかったのは、生まれるのが早過ぎたからだろう。死後毀誉褒貶に晒され、彼の革新的先取り精神は忘れ去られたり葬り去られた、というのも分かる。人間は自分の理解できないものを怖れる生き物だから。
前著『十字軍の物語』を読んでいる時、「あ、作者はフリードリッヒ二世に惚れたな」と思う瞬間があった。その通り彼女は稿を改め、フリードリッヒ二世のみで一作をものした。作者の筆が乗っているので抜群に面白い。また同時代人であったアッシジの聖フランチェスコも魅力的。
(以下は筆者用の覚書である。)
〈一言で言ってしまえば、連邦制ではなく、中央集権制である。さらに一言で言えば、封建社会の継続ではなく、封建制を壊すことによってしか成立しない、近代的な君主国への移行であった。〉P87
13世紀に18世紀的な思考をしていたことになる。あるいは古代の再興だろうか。それならルネッサンスだが。彼は、法治国家を目指していたのだ。
〈中世の歴史にはイヤというくらいに出てくる「破門」だが、語源はこの時代の公用語であったラテン語であるとはいえ、古代のローマ帝国時代からあったラテン語ではない。古代末期にキリスト教会が作語したラテン語で、辞典では「後期ラテン語」と分類されている。〉P156
何やら日本語でも同じことがされていたような・・・。「創作古語」とでも呼べそうな単語だ。
〈信者たちの精神面でのケアや死後の安心はローマ法王の管轄下にあることは認めるが、それ以外の世俗の世界における実際の生活面に関してならば、責任はあくまでも皇帝や王にある、という考えだ。聖書にあるイエス・キリストの言葉、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」を、フリードリッヒは自分の考えの支柱にしていたのであった。〉P206
神の代理人としての法王は政治に不要、という脱・中世的考え。簡単に言えば政教分離だが、それを中世に考えつくというのがすごい。聖書を通じて神と個人が直接結びつくという考え方はルターにも似ているが、この時代としては画期的なものだろう。さらにそれが神聖ローマ帝国皇帝の立場にある者の考え方ならば余計だ。
〈中世のキリスト教会は、キリスト教によってすべてを律することこそが神の恩寵に浴す唯一の道だと信じられていた。(…)しかし、中世も、この一色で塗りつぶされていたわけではなかった。もしも塗りつぶされていたのであったら、たとえ二百年の後にしてもルネサンスは生れようがなかったのだ。〉P210
常に「世間の常識」から一歩引いて自分の頭で考えることが出来る人は一定数存在する。
〈諸侯でも庶民でも教会関係者でも、不当な行為を受けた際の報復であろうと自分で勝手にやってはならず、裁判所に訴えて法的な関係を待つ、とした項目である。これは、封建諸侯が享受してきた既得権のうちの司法権を、ゼロにまで落としたことを意味していた。フリードリッヒの考える秩序とは、武力や腕力によるのではなく、法によって実現さるべきものであったのだから。〉P211
現代なら当たり前と思うことを、それが当たり前で無い時代に正面切って当たり前にしようとした。法治国家という概念が無い時代に法治国家を作ろうとしたのだ。
〈召集される人々は大きく三つに分かれていて、三分の一は封建諸侯、次の三分の一は聖職者階級、そして残りの三分の一は市民の代表が占めていた。上座に坐る皇帝に向って、何であろうと自由に発言できる雰囲気まではなかったろう。それでも、発言は認められていたのである。この三部会がわれわれの前に再び姿を現わすのは、これより五百七十年が過ぎたフランス大革命を待たねばならない。〉P213
ルネサンスに先立つこと200年、フランス革命の精神に先立つこと600年、先が見え過ぎる人だったのかもしれない。中世に現れた啓蒙専制君主だと言えばいいのだろうか。
〈ナポリ大学やこの官僚養成校を卒業した若者たちが、フリードリッヒという「頭脳」が考え出す政策を実行に移していく、有能な「手足」になっていく。というわけで、官僚機構確立の重要性に中世のヨーロッパで最初に注目した人も、フリードリッヒになるのだった。〉P224
中央集権国家の官僚育成。大学を出ても聖職者になるのが普通だった時代のことである。
〈孫のフリードリッヒ二世は、封建社会から法治国家に改革することに意欲を燃やしていた。それも、封建諸侯を法治国家の高級官僚に変えながら。〉P257
まだ上巻なのでこの意欲がどう結実するのか分からないのだが・・・。
〈これ(=法王は太陽で皇帝は月)に、皇帝フリードリッヒ二世は反駁する。法王よりもイエス・キリストの言葉にもどるべきだ、として。その言葉とは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」である。法王と皇帝は上下関係にあるのではなく、各々の担当する分野がちがうだけである、というわけだ。〉P292
この画期的で脱・中世的な考え方は次第にヨーロッパの王侯たちに広がってゆく。
〈封建社会を温存したからこそ十万の兵力を召集することができた皇帝赤ひげだが、その孫のフリードリッヒは、封建社会から中央集権国家への移行に情熱を燃やしていた。兵士さえも諸侯に頼らず、カネを払って傭う、しかなかったのである。〉P293
しかし彼は、対ロンバルディア戦では戦争のセンスがあることも見せた。
次は少しまとめてアッシジの聖フランチェスコについて
〈アッシジに生れフランチェスコ宗派を創設したこの人を私はルネサンスの第一走者と見ているが、それは何も、この人の宗教者としての活動だけによるのではない。たしかに彼が説いたことは、当時のキリスト教では革命的だった。法王を始めとする聖職者たちの豪華絢爛に抗して清貧であることの尊さを説き、キリスト教の神は、これまでに言われてきたような厳しく罰を与える神ではなく、優しく包みこむ愛の神であると説いたのは彼である。〉P276
〈フランチェスコの教えが、またたくまに北伊と中伊のコムーネに広まったということでは、歴史研究者たちも一致している。心臆することなく金もうけに専念していてよいのだ、と言われて、イタリアの「働く人」たちは安堵しただけでなく、勇気づいたにちがいない。資本主義は十六世紀のプロテスタンティズムから始まった、とするマックス・ウェーバーを待たなくても、資本主義は十三世紀の聖フランチェスコから始まったと言いたいくらいである。〉P278
これには驚いた。聖フランチェスコが清貧を説いたのは知っていたが、勤労も奨励し、それが金もうけを肯定することになっていたとは。何となく清貧と矛盾するように思わないでもないが。たとえ儲けても、できる範囲で不幸な人々の救済にお金を回せば良い、というこれもある意味合理的な考え方だ。これがルター、カルヴァンよりはるかに前に言われており、北・中イタリアの人々の心を掴んでいたのだ。資本主義が聖フランチェスコに始まるという、画期的な見方。
同時に連想が広がり、1960年代末のアメリカ、サン・フランシスコに集結した「フラワー・チルドレン」たちも聖フランチェスコの博愛、清貧、慈善の精神に共鳴していたのではないかなどと思った。
〈フランチェスコもフリードリッヒも、この二百年後からは華麗な花を咲かせることになるルネサンスの先駆者になる。二人とも、既成の概念にとらわれず、開明的であったことでも似ていた。しかし、ちがいはやはりあったのだ。そのちがいの要因は、フランチェスコが商人の息子として生れたのに対し、フリードリッヒは、皇帝の息子として生れたことにあったのではないか。(…)しかし、彼ら二人が生きていた十三世紀のイタリアで台頭しつつあった新興の勢力は、「祈る人」や「闘う人」ではなく、「働く人」になるのである。百年後に訪れるルネサンス前期には、「市民」と呼ばれることになる人々であった。〉P279
既成の概念にとらわれず、開明的な二人。同時代人の感情の波に呑まれることなく、一点高い理想を掲げて邁進した彼ら。そんな彼らが次の時代の思想の波を作っていく…。読んでいて心が晴れ、新しい空気を吸ったように思えた。
新潮社 2013.12. 定価:本体2400円(税別)