『「国語」の近代史』安田敏朗
〈近代の日本では、ことばの階層差・地域差、そして書きことばと話しことばといった違いをすべて解消してひとつにまとめることが重要な課題となった。その理由はのちに論じるが、ひとつにまとめて、それを「国語」と称した。国民をひとつにまとめ、そこに現在的にも歴史的にも一体感を与えるための手段として「国語」が位置づけられたのである。こうした「国語」を学問的につくり、国家の言語政策にも深く関与したのが国語学であった。〉
〈近代国民国家は国民一人一人を直接的にとりこまなくてはならない。ことばの面でみると、国家による統治の貫徹のためには統一された書きことばを全国民に習得させる必要がある。〉
〈何の意識もなく話すままを書いてもそれは書き言葉にはならない。そもそも、話されることばの音声の多様性をそのまま文字として転写することはきわめて難しい。逆に書きことばを読み上げてもそれが話しことばになるわけでもない。したがって、かなり意図的に両者を接近させた、書いても話しても同様な、新たな文体を設定していかねばならない。明治政府樹立から約二〇年、一ハ九〇年前後にかけて言文一致の動きが活発になってくるのも、この新たな文体の模索の一環である。〉
〈話されるものとしての「国語」をつくりださないと、それまであった書きことばと話しことばとの溝、それに象徴される階層間の溝、というものを埋めていくことができなかったのである。それができない限り、近代国民国家日本は未完なのであった。〉
副題は「帝国日本と国語学者たち」。
まさに知りたかったことがずばり書いてある本だった。これを読めば言文一致運動が単なる文学運動なのではなく、国策だったことが分かる。言葉の地域差(方言)を抑圧し、階層間の言葉の面での格差を解消して、統一された言語による統一国家を作るための、政府の要請だったのだ。それに応えた東京帝国大学の国語学者たちを中心に論が展開する。とくに上田万年について詳しい。現代の国語教育改革問題も明治政府の目指したものまで遡って考える必要があるかも知れない。必読の書だと思う。
中公新書 2006年12月 880円+税