『短歌研究』2023年8月号
①嫌われたって生きたもの勝ち千年ののちの月面たんぽぽ畑 富田睦子 上句に惹かれた。嫌われてるのかもと思っても他人の心は分からない、生きないと。死んだらどうにもならない。下句はそれを時間に転じて、未来なんて分からない、気にするなと言っていると取った。
②川本千栄「正気」20首寄稿しています。ぜひお読み下さい。
③数日を部屋に生かしておくために水に浮かべてゐる花の首 栗原寛 少しずつ水切りして、最後は花首だけになった。それを水に浮かべている。ガーベラのような形状の花を想像する。生かしておくため、といっても、もうその花に命は無い。人間が鑑賞するためなのだ。
④山下翔「いまなぜ小池光特集なのか」
ありのままなる現実を歌によむことのむつかしわれは希(ねが)へど 小池光
〈最新歌集の一首である。「ありのまま」にうたったのでは「ありのままの現実」はうたえない。小池の歌が「ありのまま」に見えるのは、そう見えるように「作って」いるからである。〉
「ありのまま」にうたえばいいというのは、よくある勘違い。実際には相当な力業で、誰でもができるものではない。短歌の「写生」の定義が色々なのも、この辺が原因だろう。
⑤寺井龍哉「小池光 鋭い歌 解説」
〈一首の短歌を読んで、そこで叙述されている事柄、提示されている場面について、私はこの歌を読む前から、ずっと前から知っていた、と思うことがある。私の記憶や経験のなかに織り込まれていたにもかかわらず、言葉にはなっていなかったものが、目の前で、短歌の言葉に、簡潔に結晶したように思えるのである。鋭利な刃物が、私の内面、無意識の領域に、ぐっとさしこまれたような快感がともなう。〉
小池光の鋭い歌についての解説だが、他の歌人の歌や、他ジャンルにも当てはまると思う。
⑥大辻隆弘「伝統への転回」
〈短歌を「私」の発言として理解するという「一人称性」や、作中の人物がそのまま作者そのものと同一視されるという「私性」は、近代短歌の限界として前衛短歌運動のなかで批判されてきた。ところが、ここで小池は、その「一人称詩型」や「私性」を「ハイ結構」と受容するのである。ここでも小池は「第二芸術論」や前衛短歌運動のなかで否定されてきた近代短歌の〈悪しき〉伝統を、積極的に担いなおそうとする姿勢を見せている。〉
この評論すごく面白かった。小池自身が短歌の伝統を背負うというより、それを戦略的に活用している、と理解した。大辻による、小池の歌の解説も勉強になる。論に引用されている小池の発言も面白い。ここで引用するには長いので元の文で読んで欲しい。
⑦「堂園昌彦による歌集解説」「第三歌集『日々の思い出』」
〈小池自身はあとがきで、(…)思わせぶりで暗示的な作品への違和感を表明している。だがもちろん、「日付のある写真」も自身で述べるように「額縁」の一つであり、選び取ったものである。だからここにある平凡さは自然に捉えられたものではなく、いまふうの言葉でいえば、「一周回った平凡さ」となる。だからこそ『日々の思い出』の歌には、短歌定型の奇妙さと、日常の奇妙さの両方が露呈している。〉
これは先に引いた山下翔や大辻隆弘の論とも通じている観点だ。さらに堂園は、小池光の『日々の思い出』以降の作品がそれまでになかったもので、短歌形式への問いがラディカルになっている、と述べる。引き続き注目したい論だ。
2023.8.11.~16. Twitterより編集再掲