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いびつな輪郭

 この夏、風邪をひいて寝込んでいる間、寝る間も惜しんで観ていたのがドラマ『阿修羅のごとく』だった。流行病で家に閉じこもっている数日のあいだに観たところ、あまりの面白さに寝ることも忘れて観通してしまったというわけだ。

 向田邦子の作品には、爆笑問題の太田光のラジオや書籍での紹介を通してふれた。太田がいうように、脚本にせよ小説にせよ登場人物による「説明ゼリフ」というものがないということが、向田邦子作品の特徴であると思う。それなのに、彼女の作品中における人々の感情の動きというのは、鮮やかに浮かび上がり、むせるほど匂い立ち、わたしたちの目の前に立ち現れる。そしてそれは人物の行動や所作、ため息のようにこぼれおちる何気ない言葉によって実現されているというのが、向田作品の凄みであるのだろう。

 たとえば『阿修羅のごとく』においてそれは、窓の結露に指で描いた「父」の文字であったり、部屋で口遊む童謡「かたつむり」であったり、「阿修羅のごとく」というタイトルそのものであったりする。いうなれば、画面に切り取られるすべてのものごとが、寓意性をもっているのである。そしてそれは、向田邦子はものごとの「輪郭」を幾重にも描くことで、その中にある人間模様を鮮明に映し出している、ということを意味している。

 だから、向田邦子にとっては、「愛」という感情を語るときに、「愛」という言葉はいらない。「愛」にまつわる様々な事柄をぐるりと並べて、その輪郭のなかに「愛」そのものを出現させるのである。そして向田は、こうした手法を通して、観るもの読むものに色々なことを教えてくれる。
 それはたとえば、「愛」にまつわる様々な事柄のうちには、「愛」でないもの、「倦怠」であったり「馴れ合い」であったり、「勘違い」であったり「嫌悪」であったりといったものが当たり前に含まれているということだ。そして、向田作品におけるそうした感情に縁取られた「愛」の形は、いわゆる「ハートマーク」ではなく、どこか歪んでいびつな形をしている。しかしそれはどんな家族物語より、恋愛譚より、恐ろしいほどリアルな人間たちの形であるといえるのではないだろうか。

 最後に、向田邦子の天性の寓意力というのは、『父の詫び状』に収められた以下のエピソードに発端するものだと思う。

「お父さん。お客さまは何人ですか」
いきなり「馬鹿」とどなられた。
「お前は何のために靴を揃えているんだ。片足のお客さまがいると思ってるのか」
靴を数えれば客の人数は判るではないか。当たり前のことを聞くなというのである。
あ、なるほどと思った。

『父の詫び状』向田邦子(文春文庫)

 (2024.11.14)

 

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