ハイデッガーの「世界-内-存在」と"Umheimlichkeit"(なじめなさ)
「アナタの人生は、アナタだけのもの」とよく言われますが、人間社会に「絡め取られ」過ぎている人への元気づけにはなりますが、所詮、人は社会の人間関係の中で生きるしかないのですから。たとえネット上でもね。
そもそも生物として生まれ、成長する過程は、他者(動物や植物を含む)との相互作用そのものですから。
ハイデッカーがいうが如く、「世界内存在」であり、「寄るべのなさ(umheimlichkeit 不気味さ、という定訳はよくない)」の中を生きるしかないものです。
「寄る辺のなさ」より「なじめなさ」がストレートか?
"um-heim-lich-keit"=「否定辞→故郷の→ような→名詞化」
実は、「世界- 内-存在(In-der-Welt-Sein)」以上の、ハイデッカーの「存在と時間」の鍵概念でしょう。
世界の中に、"umheimlichkeit"を体験しながらしか生きられない。
「寄る辺がない」からこそ、「自由」なのではないでしょうか?
「故郷(heim)」の因習にがんじがらめに絡めとられてはしまわれないからこそ。
これが、ハイデッガーの言う「実存」(「現存在」Dasein=「ここに-いる」)ということではないかと。
♪ここにいるよ、いつまでも
♪ポプラの枝になる
更に言えば、人間が他者と「共に-いる」ということは、#サリヴァン の言う「共人間的有効妥当性確認(consensual Validation)」が可能な状態でしか生じ得ない。
"con-sensual"=「共に-感じる」。
♪同じ花を見て、美しい
と同じように感じている、という、
「共同注視(北山修)」の「錯覚(illusion)」を、ある程度(!)、信じられること。
「脱錯覚=幻滅(disillusion)」との往復運動に耐えられること。
(以上、「若き臨床家のために」より)