向き合い方を変えてみたら、自分のnoteが見えてくる
今年の始めにこんな記事を書いて、以後、固定記事としています。
本来のnoteとは自分にとってどういうものなのかを整理して記事にしてみたものです。
特に、タイムラインをほとんど見なくなったことで、私のnoteは変わってきたように思います。
それまで積極的に交流してきたのに、こちらがアクションしないことで、スキさえいただけなくなった人もいます。
そのため本当の意味での交流相手の焦点が絞られてきたのです。
結果、自分なりに気持ちが楽になり、noteに対する思いが少しずつ変化している気がします。
その中で、ある程度の確信を感じ、そこからまた今後の向き合い方へのヒントを得たような気がし、さらに変化したnoteへの向き合い方を整理したいと思います。
ジャンルが同じだから、
交流できるわけではない
まず明らかなのは、同じジャンル、私で言うなら歴史や大河ドラマの感想、そして紀行記事で、それらが共通しているからといって交流が続くとは限らない事です。
交流しようという意思があるかどうか
逆に言えばまったく苦手で知らないジャンルであっても、中には理解しようとして寄り添って下さる方がいるのをみると、内容云々よりもお互いの人間性が通じ合えるかどうか、とどのつまりはそこにあると思います。
いくらネット上のお付き合いとはいえ、結局は人間同士のお付き合いであり、文章から記事主の人間性や温もりが感じられると、たとえ興味のない事でも学んでみようと思えるのは、人としての当然の心理ではないでしょうか。
私にもまったくジャンルの違う方で、いやむしろそういう方の方が、親身に交流してくださっているように思えます。
どちらが先に?と言うのは忘れましたが、結局お互いに歩み寄ることで、それぞれの世界は広がり、お付き合いはずっと続いているのです。
頻度ではなく、細く長く
毎回スキを必ずくださる方もいれば、たまに下さる方もいます。
人それぞれには一定のペースはあるので、それは当たり前のことだと思っています。
どんなペースであれ、続いてゆくのが理想的なフォロー関係だと言えます。
約3年間、noteを続けていると、気付けば多くの方が活動していません。
そういう方々の特徴の一つに、積極的すぎる交流にあると思います。
確認は取れていませんが、おそらく私の記事だけでなく他の記事にもスキやコメントを多数されて、活発に交流をしていた方ほど、突然noteを辞められるケースを多く見てきました。
当初は純粋に交流を求めてのことだったとは思いますが、いつしかそれが負担になり、自分で自分を苦しめる事になったのではと憶測します。
その行為には、元は「お返し」の期待が大いにあったのかもしれません。
常に自分へのスキやコメントを期待していては、そのnoteはやがては行き詰まるものになり、やがてはnoteを楽しむ事を忘れて、「お返し」にばかり追われて、思い描いたものとは違う苦しいものになるのではないか。
「お返しを期待しない交流」こそが本物だと思うのです。
コメントやスキは
プレッシャーを与える?
スキだけではなくコメントを入れるのは、かえって相手に「お返し」を強要してしまいプレッシャーを与えているのではないか?と感じる事があります。
これは私がマニアックな「歴史」をテーマにした記事が多いため、個人的に考えすぎていて、参考にならないかもしれません。
世間的には不人気な内容のため、無理してコメントしてくださったのではないかと思う時があるのです。
そういう方には心から感謝するとともに、密かに申し訳ないという気持ちもあります。
それでも続く人は続く
とはいえ当初はそう思ったとしても、その後のお付き合いが続く人もいれば、最初だけという人もいます。
こちらから常に積極的に交流しないとお付き合いは続かない人もいます。
何度か記事にさせていただいていますが、私はフォローバックは簡単にはしません。
フォローする方の中には、完全にバック目的の人もいるからです。
そういう方は結局のところ、交流が続かない「幽霊フォロワー」となるのが目に見えていているため、しばらく交流度合いを見させていただいてからバックするようにしています。
そこでわかる事は、様子見の間に早々とフォローを外す人もいれば、こちらがバックしようがしまいが、変わらず交流関係を続けて下さる方もいる事です。
私がフォローする方は「あなたの記事を読みに行きます」というサインであり、やみくもにフォローをしても、全てを読みに行けるわけはないからです。
noteは誰のため?
そこで基本中の基本に立ち返ってみましょう。
そもそもnoteは誰のためのものか?
自分の為?
あるいは他の誰かの為?
中には収益を得るための宣伝や、noteそのもので稼ぎたい人もいるでしょう。
何に向けてnoteという媒体を使って発信してるのかによって、基本的なスタンスは大きく違ってきます。
note界から脱落する人の理由の多くは、その基本の立ち位置を見失ってしまい「こうあるべき」という呪縛に憑りつかれてしまったからではないか?
投稿記事の前宣伝とお詫びは必要か?
時々見かけるのは、自分の投稿に関しての「つぶやき」です。
それは時には「こんな記事を書くよ」というCM的なものであったり、投稿できない理由とお詫びなどがありますが、それは必要なのかな?
誰もそんなことで責めないと思うし、何かしらの忙しい状態で更新できないのであれば、リアルな生活を優先させるのは当然のことです。
例えば数十万単位のフォロワーがいて、全ての人が自分の記事を心待ちにしているのならわかります。
あるいはnote以外の複数のSNSにも同時投稿していて、とんでもない数のファンが存在していて、十分な収益を得ているのなら話は別です。
しかし残念ながら、そういうクリエイターはほんの一握りにも満たないはずで、私を含めたそれ以外の大部分の方々は、誰も楽しみに待っているわけではないと思った方がよい。
私なんて、誤字脱字の指摘を受ける事などは日常茶飯事ですし、間違った情報を書いてしまう事もありますが、記事の訂正はしても、あらたに”つぶやく”こともしません。
そこまでの注目度はないし、世の中に対しての影響力などほぼ無いからです。
ドカーンと何かで有名人にでもなれば別ですが💦
真のお付き合いが見えてきた
タイムラインから記事を訪問するのではなく、私のnoteに訪問していただいた人を中心にお付き合いを絞ると次のように変化しました。
マイナス面
・コメント数の減少
・スキ数の伸びは遅い。
・離れる人が増える、あるいはお付き合いが無くなる。
プラス面
・コメント数が少なくなった分、返信の為の時間が空く。
・スキもコメントも後日にじわじわと数が伸びる。
・真のフォロワーを見極められる。
前述した通り、特に興味もないのに気を使ってコメントしてくれていたであろう人が、どんどん減っていき、純粋に記事内容に反応した人がコメントやスキをくれているように思います。
以前はタイムラインから、フォロワーを見つければやみくもに交流していたのですが、それをやめただけで、随分と気持ちが楽になり、真のお付き合いの方々のみが交流して下さっているように思います。
~去る者は追わず~
と言うのは私の信条ではありますが、これは決して気分を害しているわけではなく、お互いに気を使うようなお付き合いの仕方は避けたいなと思うのです。
まさしくnote3年目にして、その向き合い方がわかったような気がします。
<注意喚起>
最近、ステアカで何度も記事とは無縁のコメントをする方がいます。
内容を要約すると、
・あなたの記事は素晴らしい
・今後も書き続けて欲しい
・あなたの幸せを祈ります
というものです。
誹謗中傷ではないものの、定型文を用意して複数の記事にコピペしているのはあきらかです。いったい何が目的なのかは知りませんが、ちょっとだけご注意ください。
ちなみに私は4度コメされましたが、無視して削除しています。
あなたに幸せを願ってもらう義理はないから!
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