佐渡殿・鷹殿・お六殿
しばらくの正信ロスでどうする?
実は違う話題の記事を書こうとしていたのですが、これは書かずにはいられません。
それはズバリ私は松山ケンイチのファンだからです。
2006年の「デスノート」での名探偵・エル役はまさしく原作そのもので、その圧倒的演技力に驚きました
2009年の実写映画版「カムイ外伝」ではのちに結婚する小雪との共演で、忍者としての苦悩を演じ、そのアクションも素晴らしかった。
2011年「GANTZ」では嵐の二宮和也と共演したSFもので、怖いけど、新しい世界観に夢中になりました。
そして何より、私を惹きつけたのは、
2012年の大河「平清盛」です。
世間では視聴率が伸びず、悪評されたようですが、どうしてこの作品の良さがわからないのか、私には不思議で仕方がありませんでした。
やはり平安時代だったからでしょうか?
とにかく彼には固定した演技イメージはなく、どんな役にも化けれる正真正銘の「カメレオン俳優」なのです。
私は松ケンの演技力を高く評価しています。
今年の大河で本多正信役をすると知った時は、心が躍りました。
さて、タイトルは晩年の家康の「三大好物」と言われているものです。
・佐渡殿ー本多正信の呼び名。
・鷹殿ー鷹狩のこと。
・お六殿ー家康の54もの年齢差の最後の側室。
そう揶揄されるほど、本多正信は家康にとってかけがえのない側近として今に伝わっています。
「どうする家康」の現時点では想像もできないことですね。
私は家康の家臣団の中では、一番面白いと思っている正信役を松ケンが演じるのが楽しみで仕方がありません。
当時の「宗教」への思い
家康最大のピンチ
主君にも怯むことなく、罵倒するセリフに当時の時代背景が見えるようでした。
元々、家臣団の「嫌われ者」だった正信は、さらに「裏切者」というレッテルも張られて窮地に追いやられます。
今回の「三河一向一揆」は、次々と裏切りが生じ、松平家の内部分裂にまで発展する大きな事件となりました。
「一向宗」にすがるのも仕方ない
約一年前にも「一向一揆」に関して書かせていただきましたが、一向宗に悩まされたのは家康だけではなく、織田信長をはじめとする他の武将たちにもありました。
当時の庶民たちにしたら、天候による飢饉だけではなく、各地で起こる戦乱により田畑は荒らされ、日常的な貧困に喘いでいました。
明日の食料の確保も難しい絶望的な状態な中で、「宗教」に一筋の光を見出して縋る人が増えたのも当然の成り行きだといえます。
「一向宗」とは、その名の宗派は存在したのですが、ここでは「浄土真宗」を指します。
ドラマ中に登場した本證寺・空誓はその「浄土真宗」を開いた親鸞のひ孫にあたる僧侶なのです。
上記記事内にリンクを貼っていますが、「浄土真宗」とは、厳しい修行を修めなくても心で「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、誰でも等しく極楽浄土へ行けると説いたお手軽な宗派です。
・悲惨な時代背景
・知識や努力なしに習得できる
この2つの条件は、庶民たちにとって精神的な支えとなったことは容易に想像できます。
本多正信の8年前の回想シーンは創作だと思われますが、彼だけでなく皆、さまざまな思いを抱えながら、「主君か信仰か」と苦しい選択を迫られてしまうのも無理のない話なのです。
他にやり方はなかったのか?
私の無知な意見を述べると、
この一揆の場合、元々の決め事(法律)である課税や外部の立ち入り拒否にあたる「守護使不入の特権」の変更の話し合いだけでは済まなかったのでしょうか??
あくまでも現代人の考え方なのですが、年貢(税金)を取り上げるのではなく、取り立てる割合を話し合うという意見は出なかったでしょうか?
腹を割って現状の窮状を説明し、従来の半分ぐらいは納めるように交渉できなかったのでしょうか?
この一揆でどれだけ無駄な命が奪われたかと思うと、まず交渉すべきではないかと思わずにはいられないのです。
今後の正信の復活劇に注目
正信が守ったもの
今回の一揆での正信の行動は、ただ単に人として行動したことが、結果的には裏切り行為となったに過ぎないのです。
家康の家臣としての立場より、
一人の人間としての信念を貫いたのです。
他の家臣団、特に本多忠勝から嫌われた理由として、武士らしく武力ではなく、知略で対処する正信のやり方を姑息と捉えていたからでしょう。
この時に正信が全てを投げて己の信念を貫いたことは、家康だけでなく他の家臣たちも驚いたに違いありません。
復活した理由をどう描く?
経緯は?
国外追放を言い渡された正信の行動と復活した経緯はハッキリわかっていません。
いったいどういう経緯で徳川の家臣として返り咲いたのか?
一説によると、「どうする家康」でも信頼し合っていた大久保忠世(小手伸也)が間に入ってとりなしたという説があります。
本作でも今までの経緯を見ると、この説を取るような気がしますね。
でも、今年の大河は定説とは離れてしまう傾向が強く、もしかしたら全く別の新しい展開になるかもしれません。
いつ頃か?
・1570年「姉川の戦い」浅田長政VS織田・徳川
・1582年「本能寺の変」
これらの時期が憶測されていますが、現時点が1564年なので、早くて6年後、遅くて18年後???
古沢さん、ぜひとも早いほうの説でお願いします!
徳川には欠かせない重臣として
天正14年(1586)正信は朝廷より、従五位下・佐渡守に任じらることで、以後、「佐渡殿」と呼ばれるようになります。
タイトルの三大好物の通り、家康とはあ・うんの呼吸で全てを察し合えるほど息ぴったりのコンビとなり、徳川幕府設立の立役者となります。
~家康と・秀忠の仲を取り持ち、
有事には軍略家として、
平時には統治者として活躍し、
君臣の間を魚のように行き来し、
人間関係を風通しの良いものにしている~
家康は後を継がせた2代・秀忠が頼りなかったのでしょう。
自分の分身ともいえる正信を秀忠付きにして、あきらかに指導と監視役を申し付けたことから、どれだけ彼への信任が篤かったが伺えます。
正信は、よほど状況把握と洞察力に長けた人物だったのでしょう。それを家康も買っていたと思うと、国外追放して後悔していたの家康の方だったのかもしれません。
家康の寛大な事後処理
前代未聞の危機にさらされた家康でしたが、寺を徹底的に破壊することで、三河領内は以後、一向宗は禁教となり、家康の支配力が強くなります。
そして、夏目広次(甲本雅裕)をはじめとする裏切った家臣たちを赦免し、後日、本多正信だけでなく渡辺守綱(木村昴)も徳川家への帰参を許すという寛大な措置を取ったのです。
実際、当時の状況を考えたら、即刻、斬首となっても仕方なかったはずです。
しかし、赦したことで家康への忠誠心は堅固なものになり、より一層の家臣たちの結束力は強くなります。
家康はこの時、まだ20歳。
これからの長い人生の礎は、この時に出来上がったといっても過言ではありません。
※サムネイル画像はフリー写真のACより