やっと本編!「光る君へ」の押さえたい見どころ
さて、今回は定子が残した3人の子供たちのその後を中心に今後の見どころポイントをピックアップしたいと思います。
ネタバレではありますが、史実に基づいた事なので、これからの大河の展開を見守るうえで、ドラマの創作具合を図るためにも、ここで整理しておきます。
後ろ盾の無い子らのその後
定子は一条天皇の中宮という立場ではあるものの、父は志半ばで病没、兄・伊周と弟・隆家が「長徳の変」を起こしたことで失脚し、その心労で母も没し、実家は無いに等しくなります。
その上、定子自身もショックから衝動的に髪を落とし出家してしまいました。
~願わくばせめてここは堪えて欲しかった~
そう思ってしまうのはただ私が現代人特有の感覚しかないからでしょうか?現にこの「出家」が、宮中での定子の立場をますます悪くするどころか、その後に生まれた3人の子供たちの人生をも狂わせてしまう元凶になったのは間違いありません。
第一子・脩子の場合
長徳2年(996)に生まれた脩子は一条天皇にとっても最初の子であり、定子の立場が悪い時に生まれたこともあり、特別な気持ちを寄せた内親王でしょう。
母の定子が没した後も、天皇は手放すことなく宮中で育てます。
一品(親王としての筆頭地位)に叙した上、准三宮(優遇される称号)を与えるなどして脩子の立場を確立させました。
やがて寛弘8年(1011)に父の一条天皇も没すると、藤原道長(柄本佑)や彰子(見上愛)の庇護は受けず、母の弟である叔父の隆家(竜星凉)の元に身を寄せます。
☝️【注目1】
道長は今後の事も下心から考慮して、脩子を手元に置きたかったはず。
それに反発したのは、彼女は自分の立場や状況を本能的に理解し、道長の世話にはなりたくなかったのかも。
藤原実資の「小右記」によるとこの行動に道長は不快感を表していたとあります。
脩子の決断と道長の思惑はどう描かれる?
やがて隆家の大宰府赴任をきっかけに三条高倉の「三条宮」へ移り、ここが終の棲家となりました。
父の一条天皇から一品を与えられていたので、生活には困らなかったでしょうから隆家と行動を共にしなくても京で自活できたわけです。
治安4年(1024)、まだ27歳の脩子は出家し、生涯を未婚で通しますが、道長次男の頼宗の次女・延子を養子に迎え入れます。
道長の孫にあたる子を養子にするなんて、道長とはちょっと険悪な関係だっただけに意外ですが、実は、延子の母は定子の兄・伊周の娘でした。
道長の息子が伊周の娘を娶っていたなんてね~。
半分は嫌いな道長の血筋ですが、半分は亡き母の血を受け継ぐというはとこ同士の両親の間に生まれたのですね。
延子が後朱雀天皇に入内する際には、養母として付き添うという名誉もありましたし、書に長け、琴や琵琶の名手であったのを見ると、父母の才能をしっかり受け継ぎ、かなりの教養を持っていたことが伺えます。
永承4年(1049)52歳でこの世を去りますが、3人のうちで一番の長生きであり、もっとも幸せだったのではないでしょうか。
第二子・敦康の場合
長保元年(999)に誕生した敦康親王は、翌年には親王宣下を受けますが、その年に母の定子が亡くなります。
そのため、のちに一条天皇の中宮になる道長の娘・彰子に養育されることになります。
ドラマでも、敦康親王が無邪気に彰子の膝に座り、彰子も愛おしそうに受け入れるシーンがありましたね。
女院・詮子(吉田羊)が亡くなる間際、道長に「敦康親王を人質にしなさい」と助言していましたが、道長は父・兼家と同じことはしたくないと、綺麗ごとをいっていました。
でも、よくよく考えてみれば、母のいない敦康親王にとっては中宮・彰子を後ろ盾にすることができるし、一条天皇も我が子可愛さでこの藤壺にもお渡りになるでしょう。
双方にとって良い案ではないか。
敦康にとってはこのままの状態が続けば良かったのですが、天皇の御渡りが増えれば、彰子との間にも御子ができる確率は高くなり、ついに寛弘5年(1008)、彰子は一条天皇と間に敦成親王を出産したことで、敦康の人生は大きく変わりました。
そして、寛弘8年(1011)、一条天皇は愛する定子の忘れ形見であり第一皇子である敦康親王を立太子したかったにもかかわらず、すでに道長の権力が大きくなり過ぎて先行きを不安視し、彰子の子・敦成親王を皇太子にしたのです。
☝️【注目2】
道長の一条天皇への圧力がどのように描かれるのか?
この期に及んで、まだ世のためとキレイごとにおさめるのか?
この事に一番腹を立てたのが、なんと彰子であり、道長との親子関係が険悪なものになりそうです。
道長・彰子の父娘の変化に大注目です!
確かに彰子の子・敦成が立太子した方が公卿たちもやりやすいのかも。
そもそも敦康の母・定子は自ら出家した身でありながら、子を3人も成したこと自体が、公卿たちの反感を買っているので、ここは敦成の方が円満に収まるでしょう。
現にこの敦成がのちに後一条天皇として即位し、敦康親王は皇位の継承ができないまま寛仁2年(1018)、19歳という若さで病没するのでした。
第三子・媄子の場合
長保2年(1000)に媄子内親王は誕生しますが、その翌日に母の定子が亡くなります。
その後の養育は、女院・詮子とも、定子の妹・御匣殿とも言われますがはっきりしません。
抜け目のない詮子のことですし、孫でもありますので、引き取ったのではないかと私は思います。
しかし、寛弘5年(1008)、わずか8歳で病没してしまうのです。
「栄花物語」によると、一条天皇や姉の脩子が大変嘆き悲しんだとあります。
いよいよ、紫式部が誕生!
夫の宣孝の死後、まひろは「源氏物語」を執筆し、それが評判を呼んで宮中への仕官が決まるのですが、その時にも気になることがチラホラありますね。
☝️【注目3】
道長との関係は再燃するのか?
倫子や明子との女バトルはあるのか?
彰子とまひろとの関係はどう築かれるのか?
個人的には特に嫡妻・倫子が道長に対して冷たくなってきているので、まひろ(吉高由里子)との再会、そして夫との仲を察知した時、どう態度が変わるのか気になります。
男女恋愛こそが歴史を動かす
この「光る君へ」の下地は紫式部の半生を追ったものでもあり、男女の恋愛が根底にあります。
いわゆるラブストーリーが主体なのです。
だからうちの夫などは鼻で笑って端から見ていませんし、私も恋愛ものはあまり好きではありません。
しかしですよ。
よくよく考えてみたら、それらの恋愛がどれだけ歴史を動かしてきたことでしょう!
誰と誰の間にできた子が、意外な人と結びついてまた子ができる。
そしてその子がまた歴史の重大なポイントになるという、いわば偶然のようで必然な男女の組み合わせで、歴史は脈々と続いてきたのですから男女間の恋愛ほど重要な因果関係はありません。
まひろが生んだ賢子も優秀で恋多き女性であり、のちに母と同じ宮中勤めをするのですが、その過程で道長が賢子を自分の娘だと実感できるようなことがあるのでしょうか?
☝️【注目4】
道長と賢子との出会いのシーンはあるのか?
そして自分の娘であると認識できるような出会いになるのか?
後半も楽しみな展開が続きそうで、ますます目が離せません。
【参考サイト】
・武将ジャパン脩子内親王
・武将ジャパン敦康親王
・オートグラフ