「城」は知れば知るほどやっぱりいい!
私は「城」が好きです。
いきなり「司馬遼太郎と城を歩く」の冒頭のようですが、実際は体力がないため城ガール(古い!)にはなりきれず、私にとっては歴史を知る中で欠かせないカテゴリーの一つなのです。
好きなわりには城に関してのnote記事は少なく、昨年、初のレキジョークル紀行記事として「福知山城」を皮切りに、秋には「千早赤坂城」、そして今年の春には「名古屋城」の3本しかありません。
他は今のところ、noteでは未発表なのです。
日本にはかつて5万もの城が存在していたと推定されています。
それらはいったい何の目的で、どんな役割だったのか?
各時代の背景や立場から感じられ、当地の支配者の「思い」や、先人たちの技術や労力を思うとそれぞれが魅力あるのものなのす。
今日はそれらの「城」についてその簡単な歴史を交えながら、熱く語りたいと思います。
守るための城
「城」という字は「土」と「成」が合わさったもので、その字のごとく土で作られたものであるのが原点です。
ですから本来の城の概念は、自分たちの土地を守る意味での堀や塀であり、まさしく「土」を原材料として「成形」したものだったのです。
弥生時代に観られる一定の集落全体を堀で囲んだ環濠集落や小高い丘の上に集落を置いたりした高地性集落などが始まりのようです。
7世紀の飛鳥時代になると、わらの束を家の周囲に積み上げて壁として集落を守った「稲城」が、土や水に稲を混ぜて踏み固めた土塁へと発展します。
🏯西日本の場合
中国や朝鮮など外国勢力による侵攻に備えるため、博多湾に百済人などによる「水城」や、太宰府に築かれた「大野城」が、残された文献上の日本最初の城のようです。
驚くことに「大野城」跡にはすでに石垣が存在しているのを見ると、今の韓国南西部である百済の文明に高さには目をみはるものがあります。
北九州や瀬戸内沿岸に多く見られたのは、山肌に大きな岩を並べて、敵を封鎖した城が登場し、これが山城の始まりではないかと言われています。
🏯東日本の場合
当時の「大和朝廷」と敵対関係にあった現在の関東・東北・北海道である蝦夷を支配するための軍事・行政の拠点として、主に東北地方に複数の城柵とよばれるものが築かれました。
西日本の古代山城と比較すると守りに弱く。どちらかというと行政的な要素の強い砦のようなものだったようです。
戦うための城
平安時代末期から武士が台頭し始め、やがて鎌倉時代に入ると本格的な城が築かれます。
当時の武士は、中央の権力者から預かった各領土の管理者で、それぞれに独立した集落を作る必要がありました。
それら武士たちの居住地はもちろん、戦時を想定して山や川などを天然の要害として利用した防護も必要になり、小さくても防御力のある城が必要とされました。
しかしまだ当時は、平野にある小高い丘に周囲に堀を巡らした「館」に過ぎませんでした。
🏯千早城は籠城戦に耐えた初の山城
城の概念が変わったキッカケは楠木正成の活躍によるものです。
鎌倉幕府がまさに滅亡しようとしている1333年、「千早城の戦い」は楠木正成による軍隊が幕府の大軍を撃退し、「籠城戦」で初勝利を収めた城が千早城でした。
大阪府下で唯一の村・千早赤坂村にあり、「楠木七城」のうちの一つとして、今も跡地を見る事ができます。
上記に貼っているリンク参照の通り、千早城への紀行は私にとって本当に心が折れるほど体力を消耗するものでした。
足元の悪い石段が九十九折に延々と続き、軽装であってもかなりの労力を要した事を思うと、重装備に違いなかった鎌倉幕府軍は、よくも攻める気になったものだと、その根性には脱帽します。
ましてや、掻盾や逆茂木などのバリケードを張り、橋を爆破したり、上から狙い撃ちされたりしたら、これはもう落とす事は不可能です。
この戦い以後、「籠城」は戦法の一つとして認識され、険しい山を掘削して土塁や曲輪などを築いていく山城が一般的となり、完全に軍事的な拠点として発達しました。
権威を示すための城
南北朝時代から室町時代、やがて武士たちによる熾烈な領地争いが頻発して戦国期へと突入します。
🏯鉄砲の登場で城も変わる
それまでは遠距離用の武器として弓矢が主流だったのが、鉄砲の普及により城の役目も変化します。
鉄砲の飛距離を考慮した攻めにくく守りやすい城とするために、およそ10mだった堀の幅は倍以上にする必要がありました。
侵入した敵を四方から一網打尽に仕留めるため、直進できないよう枡形虎口を城門に設置するのが定番になったのもこの頃です。
🏯三英傑の城
私たちがイメージするお城とは天守閣が象徴となった、戦国三英傑が築いた近世城郭だと思います。
それまでは領主の居宅、行政と防衛の拠点として実用的な目的のみだった城が、高い天守閣が建てられるようになって権威や権力を誇示するものとしての役割も担ったのです。
天守閣こそが城であるという認識が現在まで続くことになります。
織田信長の「安土城」、豊臣秀吉の「大坂城」、徳川家康の「江戸城」は、いずれも当時に常識外のスケールの城で、世間を驚かせたものでした。
この時期の城は単なる軍事・行政の拠点ではなく、武士だけでなく町人なども生活する城下町が発達し、領国の経済の中心でもありました。
今に残るのはたったの12天守
元々古代には5万ほどもあった城が、時代と共に減り、徳川幕府成立時には3千にまで減少し、さらに今では天守を持つ城は12までに激減しています。
その主な理由は次の通りです。
①徳川幕府による一国一城令
②明治政府による廃城令
③第二次世界大戦よる焼失
今に残る12天守は、取り壊しの気運の高まる中でも、その価値に気付いた地域住民などの運動や募金などによって、やっとの思いで守り抜かれた城なのです。
単にその城が経験した盛衰の歴史や、人々の苦労と努力による保存エピソードを知って城巡りをしてみると、熱く心打たれてしまうものがあります。
◇◇◇
紀行した城の一言感想
【参考文献】
・城の歴史
・城びと
・Wikipedia
トップ画像は自撮りの「松本城」
サポートいただけましたら、歴史探訪並びに本の執筆のための取材費に役立てたいと思います。 どうぞご協力よろしくお願いします。