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信長の琵琶湖大作戦~天下取るには資金稼ぎから

尾張(愛知県西部)という小さな小さな田舎の国の、守護代の織田家の中でも一番の格下である弾正忠家だんじょうのちゅうけに生まれた織田信長が、天下人になるために最初に目を付けた最優先のものとは?

ズバリ資金です。

まだこの時代は、武将というものは自分の生まれた生国にこだわって、生涯その土地を守り、そこを中心に領土を増やすというのが王道でした

しかし、彼はこの田舎の小さな国から、4度も国替えして「応仁の乱」以後、室町幕府の衰退により混乱を極めた”何でもあり”下剋上の世を、
”統一して治める”
という大事業を真剣に考えて、まず着手したのが資金を生み出す地を手中に治める事でした。

地位や名誉より商業都市が欲しい


国際都市・堺

信長は足利義昭を奉じて京に上洛し、めでたく15代将軍に就任できたお礼に、義昭から「副将軍はどうか?」と言われた時、

信長は即効で断ります。

その代わりに所望したのが、泉州の「堺」を治めることでした。
戦国期の堺は、鉄砲の生産が日本一であるだけでなく、
古来より、地理的に瀬戸内海を経た貿易航路の発着点として、国際貿易港として繁栄していました。

信長にとって、衰退した室町(足利)幕府の官職など、微塵も魅力はなく、それよりも莫大な金を産む「堺」の地を欲したわけです。

それもそのはず、尾張という国には田舎で小さいながらも「熱田」や「津島」という良港を有し、織田家は家格は下であっても、その利潤を得て莫大な資産を持っていたのです。

その仕組みを幼い頃から見て熟知していたので、良港を押さえる事こそ勢力を強める基盤だと理解していました。


大津と草津

海の貿易拠点・堺を手中にして、海外から輸入を得る事になった信長は、今度は日本最大の湖で都にも近い「琵琶湖」にも目をつけます。

古来より畿内と北国間の交易港として、京都への物流の要だった「大津」
東海道と東山道(中山道)が合流し、東国への要衝であった「草津」。

この2つの港をも手中に押さえるのです。

信長はこれら3ヶ所の国内外の物流の重要拠点を手中にした事により、東西南北全ての方面の交易・物流ルートを自分の支配下に置きました。

それにより、莫大な資金が信長に転がり込むだけでなく、交易による利潤の”独り占め”となり、その他の戦国大名たちへの「経済封鎖」にもなったのです。

これらの港を押さえた信長は、確実に一歩抜きん出たわけです。


琵琶湖を制した信長のネットワーク戦略


近江国は全国屈指の城の国

信長がさらに着目したのは、日本列島のほぼ中央の近江国(滋賀県)に位置する日本一の大きさを誇る「琵琶湖」です。

近江国(滋賀県)には、城跡が1300か所以上もあり、特に琵琶湖周辺に重要な城が集中していて「城の国」とまで呼ばれていました。

その近江の琵琶湖は全国に延びる幹線道路の、
・東海道(関東方面)
東山道とうさんどう(東北方面)
・北国街道(北陸方面)
これらは畿内を拠点にした3つの道の出発点であり、
中山道なかせんどう(関東方面山側ルート)までもが通っていました。

人や物が行き交う非常に重要な陸上交通の要衝であり、
また、当時は船の移動が最速だったため、水運も活用できる航路としても便利な立地であるため、琵琶湖の周りにはたくさんの城が建てられていたのです。


琵琶湖畔に築城した城たち

そんな利便性に富んだ琵琶湖を信長が見逃すわけはありません。

安土城を琵琶湖の南の湖畔に1579年に築くよりも先に、湖畔の重要ポイントに3つの城が築かれました。
・坂本城(1571年)明智光秀【比叡山焼き討ち後】
・長浜城(1575年)羽柴秀吉【浅井氏滅ぼした後】
・大溝城(1578年)織田信澄【粛正した実弟の嫡子・甥】

これらの4つの城を結ぶことで、琵琶湖を最大限に活用し、
完全に統一支配下に置いて軍事的にも経済的にも、独占的な支配体制を整えたのです。

信長は琵琶湖をお互いの城を自由に往来する事で、ただのではなく、琵琶湖を全面で支配したようですが、これは狙った事なのか?偶然なのか?
歴史家たちの間では議論されている事なのです。

私としては、結果では軍事・経済での支配に成功しているので、天下統一を目前にして、さらに効率的に領地を支配するための狙った戦略だと思いたいのです。

明智の坂本城は天守閣を擁した豪壮華麗で、信長の安土城に次ぐ名城だったと、宣教師・ルイスフロイスは書き残しているし、
大溝城跡からは安土城と同じ文様の軒丸瓦のきまるがわらが発見されていて、見事な石垣を持つ天守台が残っています。

これらの城は自分の城・安土城を築くために試行錯誤した形跡であり、城作りの名手が織田家には揃っていた証でもあるのです。


次は絶対に大阪城だったはず!


先日、サークルでの「湖西紀行」で眺めた琵琶湖の風景を思い浮かべると、あのキラキラ光る湖面を眺めながら、信長は壮大な夢を現実的● ● ●に構想していたのだと確信しています。

とっても気分屋で残酷でワンマンだった信長でしたが、今までにない発想で攻めて、攻めて、攻めまくって革新的な事例を残しているのには違いないのです。

最期の城となった安土城から琵琶湖の景観を眺めて、これからの戦略を練っていたことでしょう。

そして、もし「本能寺の変」が無ければ、信長が次に眺めたのは「大阪湾」に違いなく、瀬戸内海へと続くその先にある未知の国との貿易を現実的● ● ●に構想していたはずです。

もし、それが実現していたなら、信長の後を引き継いだとはいえ、秀吉の大阪支配とはまた違った形になっていたかもしれません。




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