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銀杏BOYZのライブ~僕たちは世界に帰ることができない☆~仙台GIGS公演を観て。【徒然日記 #1】

私は誰かの漫談か、講習会か何かに来たに違いない。
スタンディングエリアまでびっしりと並べられた座席たちに私が感じたことは、眼前に広がる光景の異様さへの、もはや呆れにも似た諦めの境地。
苦笑いをして自分の座席を探すと、ステージからは一番遠いところで、ちょっぴり残念な気持ちがした。

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※昨日の感想を書こうと思ったら、私と銀杏BOYZの馴れ初め(?)と、世の中への毒まで書いてしまった。

およそ14~5年前。
当時、15だか16だかの年頃の私はある日、
東京の池袋にある2階建てのアパートの一室にいた。

その部屋に住む坊主頭の彼は、銀杏BOYZのBBSで知り合った東北出身の26歳。
彼、とは彼氏という意味ではなく、単に一人称なのであるが、のちに今日に至るまで奇妙な関係性を構築することになる。

細かいディテールまでは覚えていないが、
いくつかのやり取りをしたのち、私は彼の住む池袋に会いに来ていた。

まだ10代。彼氏もできたことのない純粋無垢の子どもだ。
そんな私を彼は、急襲した。
そう、その性欲に任せて襲おうとしたのだ。
けれど結局心根の優しい彼は、私を犯すことはしなかった。

瞬時に拒絶の態度を見せた私に驚き、そして戸惑いの表情を見せ
「ごめん」といった。

私はたまらなくなり、アパートから飛び出て扉のすぐ前の廊下から夜の街を見て泣いた。
不思議と心の傷はなかった。性への欲求が既にないわけではなかったし、求められることに対して悪い気はしない。
ただ単純に、そんなことをするなんて、という彼に対する失望と、急襲されたことにいひどく驚いたための涙だったと思う。

今から思えば無防備に大人の男の一人暮らしの家へ行くなんてことが論外だし、他の人なら本当に襲われて処女を奪われていてもおかしくなかった。
世間知らずだけれど人一倍好奇心の大きな私は、そんな状況に一寸の怖さも感じていなかったと思う。
むしろ、都会に住む男の人に会いに行くということに対する興奮すら覚えていたような気がする。

親にはどんな言い訳をしていたのか思い出すことはできないが、終電もない夜中にそのままどこかへ行くあても想像力もなく、結局少し泣いて落ち着いた後にアパートへ戻り一緒に眠った。

彼とはそんな、出会いだった。

彼は、ハタチの頃からある病気を抱えている。
その病気の知識を持った今の私には、優しい彼がたまらず10代の女子を急襲するだけのワケがわかる。

もちろん、そのまま同意なしに犯していたのなら、それはどんな理由があろうとも決して許される行為ではないが。その抑えきれないほど強い性欲には理由があることを、今の私なら理解することができる。

仙台GIGSの公演に行けることになったのは、先日40歳の誕生日を迎えた彼が「追加チケットの販売がある」と教えてくれたからだった。

東京と、名古屋公演の2公演の抽選に応募していたが、両方とも取れなかったのだ。

「今回は縁がなかったんだな、残念」と諦めていたし、ここ数年音楽というものに対する情熱はほぼ消えていたので特に未練もなく終わっていた。

私にとって音楽とは、不安定な心の支えだった。
きっと麻薬みたいに中毒性がある。聴けば心が解放されるような気がしていた。けれどここ数年は自力で安定して生きる在り方のようなものを身につけつつあったために、音楽を必要とはしなくなっていたのだ。


当時ガラケーで曲の一部が無料ダウンロードできる違法的なサイトが割とたくさんあって、そこで最初に聞いた、「銀河鉄道の夜」それから「BABY BABY」。ファンの中では名曲中の名曲である。

私に銀杏BOYZを教えてくれたのは、大阪に住む友達だった。
この子とも好きなバンドが一緒でどこかの掲示板だかサイトだかで知り合った。
中二のころ一時期不登校になってリストカットしていた私と同じ境遇で、文通したり電話をしたりメールのやり取りで仲良くなった。気の合う存在。今でも会えなくても彼女の幸せを案じている。

彼女のお兄さんだか、彼氏だかが好きで。いい曲なんだよ、と教えてくれたのだ。

そこから聴きはじめて、ちょっぴり聴きかじっていた彼女よりもよっぽどハマって、youtubeでも色々PVやライブ映像を観まくった。
ボーカルの峯田和伸が大好きで、そして彼の書くブログが大好きで、分厚い本まで買った。

銀杏BOYZは、友達のほぼいない私には特別で、青春の1ページだといっても過言でないほどの大きな存在。
鬱屈した行き場のない感情に力強く、それでいて優しく、彼らの音楽は寂しい私の心にいつも寄り添ってくれた。

私が銀杏BOYZを初めて観たのは、東京にある新木場STUDIO COAST。
せんそうはんたいツアーだった。

中学を卒業したのが2008年だというのだから、2007年末に行われたそのライブに本当に参加したのか疑問だったが、確かに私は行ったようだ。記憶が曖昧だが、、

だって思い出したんだ、「あいどんわなだい」「光」のシングルCDを、地元のイオンモールに当時あったタワレコで視聴して、ドキドキしながらレジに行って買ったこと。
傷一つない真新しいCDのフィルムをはがして、そっとケースを開けて、歌詞カードを開く。さらさらしてきれいな紙の感触。熱い歌詞とメロディ。

あれ、中学生だったんだな、私。
そんなに前だったっけ。
人の記憶って本当にあてにならない。

ライブに行った経験もそう多くなかった私には、あの空間はとてもとても衝撃だった。

激しいモッシュもそうだし、照明のもとで光る彼らを前に、踊り狂って乱れる都会の大人たちの姿はまるで宗教だった。
私も負けじと、最前列のほうまで頑張って人の波をかき分けて行った。峯田和伸をこの目に焼き付けたかった。本当に、大好きだったんだ。

水なのか汗なのか涙なのか、何だかわからない、きっといろんな体液の混ざったモノで、私の着ていたTシャツはびしょびしょに濡れた。
その感触の気持ち悪さ半分、なんだかわからない唸るような快感半分という、ソレ自分自身が一番気持ち悪いよねって感覚になっていた。

池袋の彼と会ったのは、それからしばらく経ってからだったが、新木場での公演に参戦したことを「その年ですごいな」と羨ましがっていたと記憶している。

それから何年も経った。
私は「アラウンドサーティー」ってやつになって、彼は奈良時代なら「初老」ってやつになった。同じ土俵じゃない時点でちょっとひどい比較だけれど。とにかく10年の離れたお兄さん的な人。

2022年3月10日の今回も、彼と銀杏BOYZのライブに参戦した。
そんなに何度も行けているわけではないけれど、東北の公演があると彼にも会えるし何度か観に行った。


そして昨日。

入場の列は決して少なくない人数で構成されているにもかかわらず、いつものライブ開演前のどこか浮足立ったような空気感はなく、みんな静かに並んでいた。

席は2階席。追加の募集だったのでこの位置でも仕方がないか、でも後部座席がないってのは気を遣わないで済んでいいな、とも思った。
2018年仙台GIGSに来たときも2階席だったが、その時は最前列だった。

開演前の長ったらしいアナウンスは、ここ2年で色んなところでよく聞く感染対策の云々。
ロックバンドのライブがこれから始まろうとしているとは思えず、いつまでこんなことを続けるんだろうという気持ちがやはり出てきてしまう。

東京の、通勤電車内のアナウンスはもう聞きなれてしまって、ただの日常の風景になじんでしまったけれど、ひとたび状況が変わるとここまで違和感のあるものなのかと思う。

演奏が始まっても、並べられた椅子にじっと黙して座っている異様さは、言いようのないものがあった。


明らかに今起きていることは、某感染症も、ロシアとウクライナの戦争も含めて本当に理解しがたいおかしなことだ。少なくとも私にとってはこの2年それが事実で、人間のやらかすことの理不尽さに腹立たしささえ覚えていた。
今はもうあきらめて、手放した感情だけれど。

某感染症で言うならば、インフルエンザのほうが過去死者は多かった。けれどもこれほどまでに騒いだことはなかった。

戦争の話ならば、過去何十年ぶりに起きていることではなく、これまでも各地で紛争は起きていた。それも、テレビが報道しなければ知りもせず見向きもしなかった人が大半だ。

メディアがこぞって報道することを一般的な事実だとしているだけだ。そういうただの風潮に踊らされて生活や命までも左右されている人が多すぎる。それを、おかしなことだといわずして何と言えるのか。

人助けのため、という名の皮をかぶった金の中抜き、戦争や人殺しへの間接的な加担。
大騒ぎの裏で、日本は憲法改正へと舵をきりつつあるかもしれない。
ニュースで流れなければ私たちは何も知らない。憲法を変えれば、私たちの安全もお偉方の手中だということもありうる。まったくひどい話だ。

でもそのおかしさっていうのは、人間の中に誰しも潜在的に存在しているずる賢さとか、愚かさとかそういうものが露呈しているだけのことで、ありふれたものなのかもしれない。


こういう背景の延長線上に、私たちの生活があって、仙台GIGSでの、彼らがやっとの思いでこぎつけた昨日の公演だってある。

世界で起きることは、自分以外の周りの人間のことは、私には到底変えることはできない。そして、こうなる前の世界に、きっと「僕たちはもう帰ることができない」。

けれどもやっぱり私が思うことは、自分自身と「今ここ」にある一瞬一瞬目の前のことは、どうにでも選んでいけるってこと。感情も、行き先も、思いの通りに選べばいいんだってこと。
目の前にあるものの中の最善を私は選びたい。そしてその先に希望はあるのだと、思い描きたい。

遠くの国の他人事、であっても、もちろん誰かの死は悲しい。
虐殺や、差別や、戦争は決してあってはならないと心から思う。
しかし、そこへ感情を引っ張られることで得する誰かがいる。
そして「僕たちは世界を変えることができない」。

だからまずは自分から、身の回りから。

見渡してみればわかる。些細なことにいら立つ自分。
どうしようもなく不安定な感情を持ち続けている自分。
誰かの言動を許せない自分。
他人の領域を冒しても構わないと思う身勝手な自分。

戦争は、そういう衝突や困難が大きく外へ外へと広がっただけに過ぎないのではないかと思う。
外へと広がるにつれて、事態は複雑に絡み合っていくのだろうから同じものとするのも違うかもしれないが、相関性のある事だ。

まずは自分自身の平和を現実的に作り上げることだ。
自分が満たされれば他に心をちゃんと心を向けることができる。自分が満足したいがための偽善なんかではないところでちゃんと。

私はそう思っている。


話がそれてしまったけれど、黙して座って聴いていた観衆は、やがて一人、また一人と立ち上がって、曲に合わせて小さく踊り始めた。

異様な空気感から一転、なんだかこのおかしな状況に光が差したような感じがした。

きっとみんなどこかで、こんなのおかしいよって思ってるはずだ。
もうおわりにしたいって。だから、嬉しかった。


私は、演奏が始まってすぐボロボロ泣いた。

どうしたって、昨年末自死した父のことに関連付けてしまう。

そのあとも、時折こみ上げる感情を我慢することはしなかった。
呼吸が苦しいほどに泣けた。

しばらくは仕方がない。
父ちゃんよ、娘がこんなにも悲しみの淵で泣いている。

そっちの世界でたんと後悔するがいい。そして、この涙の分だけ、
いいところへ行ってくれ。安らかであってくれ。

娘は苦しんではいない。悲しいだけだ。あなたがいなくなってしまった事実が、どうしようもなく、悲しいだけだ。


峯田和伸も泣いていた。

前の席の青髪の女性も、静かに泣いていた。


みんなそれぞれに思うことがある。
それぞれの人生が、価値観がある。
それぞれに想うひとがいる。


そこに寄り添ってくれる銀杏BOYZの曲は、峯田さん、あなたが生きてこうしてまた私の前で演奏してくれたってことは、ここにこうして私が来れたってことは、本当に有難いことなんだって。
嬉しくて嬉しくて仕方がなかったよ。ありがとう。


み~んなにありがとう。
生きててくれてありがとう。


この絶妙なバランスの中で生きている。
私自身にもありがとう、だ。


とてもいい日だった。


あと、そう。
いつもは激しいモッシュのある銀杏BOYZのライブだけど、いつもとは違ってアコースティックのライブだったの。

これがまた、、とっっっても良くて。

自分でも弾き語りをやる人間だから、銀杏BOYZの曲の中でも好きな〝コンプラ的にどうなのよ、な主人公”が登場する
「トラッシュ」のアコースティックバージョンを聴けたことは、本当に最高すぎて舞い上がってしまった。
語彙力が足らないけれど、とにかくずっとうれしくて、ウキウキしながら聴いていた。きゅんきゅんした。

ありがとう。なんどもしつこいくらい言いたい。ありがとう。



終わり方がわからないけれど、備忘録だしこんなもんでいいよね。
好きに書かせてよ。ってことで。

最高でした。




↓ 3/12 追記

昨日自分で書いたこの記事を読んで思い出したことがあるので書き残しておく。

私は、6年以上前にカメラアシスタントの仕事をしていた時期がある。
エンタメ業界は結構上下関係が厳しく、豆腐メンタルな私には結構厳しいものがあった。

けれども、私がその仕事をはじめたときに心から思っていたことは「この仕事は意地でも続けるんだ」「もうこの仕事が続かないなら死ぬしかない」ということだった。
私は本当に甲斐性なしで、社会不適合な人間だったので、物事を継続することに難儀していた(これは私の特性でもあるので、今は甲斐性なしとか思ってないし、私が面白みのないことをはじめちゃうのが悪いとおもうw)
だからめちゃくちゃ理不尽に怒鳴られたり、カメラを持ったまま後ろ足で蹴られたりしても歯を食いしばって頑張った。

私は運がよいことに、毎年希望者が多いとあるアーティストのツアーメンバーに選ばれた。全国ツアーのコンサート会場の設営のお手伝いと、舞台上にかけられたLED画面に移される映像を撮るカメラマンの専属アシスタントとしてついた。

北は北海道、南は沖縄までを回った。
先輩からのあたりが強くて、辛くて泣いてばかりのこともあったけれど、最後まで完遂した。その達成感は素晴らしい人生の宝ものになったし、ダンサーやアーティストとカラオケをしたり酒を酌み交わしたりクラブで踊ったりしたのも、本当に貴重で楽しく誇らしい思い出になった。


そしてその後、某屋内音楽フェスで銀杏BOYZの前で仕事をする日があった。

クレーンの先に取り付けられたカメラをカメラマンが操作しての撮影で、他にアーティストの前で撮影するカメラマンもいたのだが、私はまた会場の設営を行った後、クレーン側につく配置だった。

客席から見て舞台の上手側のその位置からは、峯田和伸の背後から差す照明の光が煌々と眩しく、ついに大好きな人のライブに携わることができた……!と心の中で歓喜したものであった。

もちろん直接のスタッフではなく、下請けで色んなところに呼ばれては駆け回るような仕事なので、峯田和伸に近づけたのはこの一度きり。仕事中ながらも、恍惚とした表情で彼の歌う姿を眺めていた。至福のときだった。

まあそんなこんな書いているが、その当時の私はまだまだ未熟でメンタルも安定していなかったし、仕事が忙しすぎて相手にしなかった結果、その当時付き合っていた彼氏とも別れてしまい、数か月後に辞めてしまうのだが。。(笑)
※そしてこの時の彼氏と別れてから、ノー彼氏なのである。別に求めてもいないが、そういうのってわりと若い内が華だったりはしないのだろうか、とは思うww

結局「もうこの仕事が続かないなら死ぬしかない」なんて思っていても、逃げる度胸のある私は絶対に自ら死ぬことはないと思う。笑

それにこの死ぬしかない、というのは別に「死にたい」ではない。
希望をもってこの世界を生きるためには、こんな自分じゃ到底ダメだ!という絶望にも似た自分への評価。

でもそんなマイナス思考のおかげで、峯田にも会えた。やっぱり自分ありがとう。そしてそんな機会を与えてくれた、某イベント制作会社よ、ありがとう。

馴れ初め(?)を書いたから、是非この話も残しておきたかった。
また、何か思い出したら書こうと思う。



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