三車火宅、あるいはスジャータの粥
昨日に引き続き「法華七喩」から得た気づき。七つの喩えのうちのひとつ、「三車火宅の喩え」に関して。
昨日の記事に記した通り僕は法華七喩の詳細をひとつしか覚えていなかったが、一部は朧げながら概要は覚えている。今朝、ふとこの寓話が気になり色々と調べてみた。ざっくりまとめると以下のような話。
この話の仏教的意味合いとしては、
燃えさかる家、すなわち「火宅」は煩悩の炎に包まれたこの世界を指し、火宅の中で遊んでいる子供達は我々衆生を指し、長者は仏を指す。
「羊」「鹿」「牛」はそれぞれ「声聞」「縁覚」「菩薩」の比喩。この三者は仏教における聖人達とイメージすればいいだろう。「車」とは衆生が救われる乗り物、教えのことである。
更になぜ長者(仏)が実際に与えたのは言葉で伝えた以上の物である最高級の白牛の引く車だったかといえば、仏が気づいた者に与えるのは「声聞」「縁覚」「菩薩」に至る教えではなく仏になれる教えだから、とされる。
(それまでのお経では限られた者しか救われない、救われない者がいる、と説かれていたことが前提にある)
なぜこの話が気になったかといえば、実際のお釈迦様のエピソードが元になっているのではないかと思ったからだ。
お釈迦様は恵まれた環境=釈迦族の王子に生まれながら心の煩悶が消えなかった。そこで立場や妻子をも捨てて城を飛び出し、山林にこもって何年にもわたる難行苦行による修行を行った。だが、その結果わかったのは「どんなに苦しい修行をしても心の煩悶は消えなかった。難行苦行は無駄である」ということだった。
難行苦行をやめ、山林から出て疲れ果ててフラフラになりながら休んでいたところにスジャータという娘が通りかかり、疲れ果てている様子のお釈迦様に乳粥を施した。その粥を食べたお釈迦様は遂に悟りを開いたという。お釈迦様を悟りに至らしめたものは難行苦行、つまりこの世の苦労ではなく、苦労で疲れ果ててへたり込んでいた時にスジャータから施された甘い乳粥であった。
昨日紹介した「衣裏繫珠の喩え」にも通じる話だが、苦しみに囚われているうちは苦しみから抜けられない。そこに差し伸べられている救いの手、今の自分を支え、生かしてくれている様々なご縁に気づくことで初めて苦しみの世界から抜けられる。
詳細は書かないが僕もいま、人生の苦しみの只中にいる。自分を苦しめる外的要因を変えようと煩悶してきたが事態は一向に良くならない。抵抗する力が尽きかけて初めて同じ土俵に立っているうちは苦しみから抜けられない、と感じた。
火宅の炎を消し去るために炎の中に突っ込むのではなく、その外に目を向ける。そこで自分を支えてくれている存在に気づくことで見方が変わり、見方が変わることで人生の感じ方、受け止め方が変わり、その結果世界が変わる。
いま、色々な理由で生きるのが苦しい人はたくさんいると思う。その時こそ苦しみの外的要因に立ち向かうという難行苦行をするのではなく、自分に施されているスジャータの粥を受け取りにいこう。苦しみの中にあっても生きている、苦しみに立ち向かう力があるということは、その力の源泉である乳粥が施されているからなのだから。
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