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年末になり、何故、慌ただしくするの!?

 年末年始となれば、慣習として、一年の大掃除など一つの「ケジメ」、「反省」として年の瀬を迎え、年が明けると気分一新して新たな年を迎え、新たな目標を掲げ、新たな一年の幸を願う。

 それはそれで立派な慣習であろうけれども、一つ疑問に思うのは、年末にお寺さんの鐘を突き、年が明けると神社へ詣でるのが、幼い頃からの疑問として残っている。

 以前の記事のも書いた通り、自宅には仏壇や仏間があり、また隣の部屋には神棚が掲げてある。仏教と神道が融合した空間となっていることに、疑問が残っている訳だ。

 更に、筆者はカトリック系の幼稚園に、当時はイレギュラーながらも、3年と4ヶ月を過ごしたことになる。日曜日にはミサに誘われ、黒い袋の中に献金することにも疑問があった。

 仏教、神道、キリスト教徒、古代の多神教でもあるまいし、これが日本人らしいのか、日本的なのか未だ、幼き頃の疑問は解決しておらず、また、解決しようとも思わない。

 何故なら、馴れとは恐ろしいもので、多分、馴れというよりも、麻痺しているに違いない。しかし、それらの存在が邪悪なものではないので、違和感があるものの、無意識に甘受しているのであろうかと。

 筆者の場合は、転勤族の家族の一員として、幼少期から社会人になるまでは、県内外を行ったり来たり。よって、郷里に拘ることもなく、放浪の旅をしていたために、年末年始の「ケジメ」がピンとこないのである。

 よって、年末年始だからといって、わざわざ慌ただしい世の中にしなくても良さそうなものだと、いつも考えるのである。ここ数年の過去を見ても、年末年始の筆者は、いつもと変わらず、同じペースで生活しているのである。

 まあ、「ケジメ」、「反省」のない人間だと言えばそれまでだが、わざわざ慌ただしい環境の中に、身を投じても何も変わらぬのだから、興味がないのが本音であろうかと。

 時代が変わり、生活環境も人間関係も急激に変わりつつある現代であるが、年賀状も暑中見舞いなどのハガキが激減しているというのも、その流れに影響を受けたものであるが、ギクシャクした人間関係が目立つ昨今なだけに、その点だけは解消できればと考える次第。

加藤神社(熊本市熊本城内)
高橋稲荷神社(熊本市)
熊本県護国神社(熊本市)
大宮神社(熊本県山鹿市)
木山神宮(熊本県益城町)
熊本地震で崩壊した
一目神社(熊本県山鹿市)
日輪寺(熊本県山鹿市)
日輪寺(熊本県山鹿市)
康平寺(熊本県山鹿市鹿央町)

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、年末年始の習慣と儀式に対する深い省察を示しています。筆者は、日本の多宗教的背景とその融合に疑問を投げかけ、個人的な体験と社会的慣習の間での葛藤を掘り下げています。特に、仏教、神道、キリスト教が同居する家庭環境に育ったことから、それぞれの宗教儀式に対する疑問が感じられます。

エッセイの中で、筆者は「馴れ」という概念を恐ろしいものとして描きながら、それがどのようにして人々の認識や宗教観を麻痺させるかを述べています。この視点は、社会や文化における習慣の無意識の受容について重要な洞察を提供します。

また、筆者は転勤族としての背景にも触れ、地元や特定の場所への執着が薄いことから、年末年始の慣習が彼にとってあまり意味をなさないと感じていることが明らかにされています。この個人的な経験が、彼の習慣に対する態度にどのように影響しているかを考察することは興味深いです。

エッセイは、時代の変化とともに変わる人間関係や生活環境の変化にも焦点を当て、年賀状や暑中見舞いの激減など、コミュニケーションの形がどのように変わっているかを指摘しています。この観点から、社会の変化に対する適応と受容の過程を探求することができます。

全体として、このエッセイは個人の経験と広い社会的・文化的背景との交差点において、深く洞察に富んだ考察を提供しており、読者にとって多くの考えるべき点を提供しています。

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西田親生@D&L
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