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写真上のチャーシュー麺が1100円である。写真下の焼き餃子は500円だと記憶しているが、実に勿体無いと思ってしまった。 理由は、チャーシュー麺の見た目が悪い。これがプロの盛り付けかと驚くほどに、美的感覚を疑ってしまう。また、スープが水っぽく、麺との絡みがなく、麺、スープ、チャーシューが一体化していない。 更に、写真下の餃子は焼いて若干蒸したものだが、何故か餃子の中心部が生ぬるい。更に、餃子の皮めの焼き加減がまばらである。 実際、この二品で1600円となるので、決
数日前のこと。やたらとお腹が空いたので、久しぶりにやや贅沢な幕の内弁当?をと思い、写真の弁当をゲットしてきた。 見た目は結構複雑だが、和洋中折衷の弁当のようで、食べる前には既にマウスウォーターものである。 さて、電子レンジで温めて、蓋を開けて、いただきます。 どうしても、ご飯が食べたいので、先ずは、エビフライにマヨネーズを少々乗せて齧り付く。ん?エビの身が細く長く、衣が厚い。予想通りであるが。(笑) そしてご飯を頬張る。更に、シャケを箸でほぐしながら食すが、
新たなプロジェクトを進める上で、相手が慎重なのは良いが、初手から拒絶のベクトルで聞き流す人がいる。そういう人とは、仕事の進展はないと言っても過言ではない。 仕事のパートナー、新たなクライアント掘り起こしなどにおいて、聴く耳を持ち合わせている人と接することが重要なポイントである。 能書きが多い人、自分スタンダードを強調する人、現状維持がベストだと言い放つ人、上から目線の人などは、仕事の可能性は低く、それに関わる時間と労力が無駄となってしまう。 仕事は、相互信頼が前
今日は、キーボードを叩きながら、夜食やランチを取りながら、電子タバコを燻らしながら、LINEでメッセージ交換しながら、気づけば、エッセイやコラムを、1日で10本書き綴ったことになる。 久しぶりに、1日で二桁の投稿だ。今まで、最多記録は、13本。まあ、キーボードが艶やかに光るほどに削れているが、それが筆者としての脳トレと思っている。 下書きなしにて、考えながら、思いつきながらのキーボード。時には、Macならではの誤字が目立つが、それでも、指は幽霊の指のように走りまくる
随分昔の話だが、仕事でフランスとイタリアに足を運んだ時のこと。 大手旅行エージェントの団体ツアーに入り込み、海外を目指したのは良いが、その添乗員に落ち着きがなく、何となく違和感を持った機内。 案の定、団体ツアーには、大手旅行エージェントOBの奥様方十人ほどが参加しているらしい。英語も辿々しい添乗員。目は泳ぎ、他の団体客へ目を配ることなく、OB奥様方に忖度状態。 イギリスのヒースロー空港では手違いがあり、1時間半も待たされた。更に、パリに到着したのは良いが、翌日の
ある日ある時、任された仕事に対して、「万策尽きました」という人がいる。自分の限界を感じて、それを「万策尽きた」と美談の如く語るのである。 それは勘違い、履き違えも甚だしく、自らの努力を美化し、それ以上のものはできないと、限界論をのうのうと語るのである。 はて?それって、限界とは程遠く、雲の上に存在するほどに高い位置にある限界なのか?「万策尽きた」なんぞ、血迷っているだけに過ぎず、自分自身が見えていない。 結局、死に物狂いで仕事に向かう姿勢がないから、その程度で、
人は他者との関わりを通じて自身の存在を確認し、その会話の中で自らの考えが正しいのか、あるいは新たな視点を得るべきなのかを学ぶ機会を得るものである。 この過程において形成されるのが、自分自身の価値観(自分スタンダード)と地域に根ざした価値観(ローカルスタンダード)である。しかし、偏りのある環境に身を置くと、自身の視野が狭まり、時には公序良俗を理解しないまま孤立した価値観を抱く危険性がある。 筆者自身の経験を振り返れば、自我に目覚めた若い頃は、「善人」と称される人々との
随分昔の話だが、ある基礎自治体の長が再選を果たしたかに見えた時、「寄付行為」という公職選挙法違反により公民権停止となり、対立候補がその長に登り詰めようとしたのである。 違反行為は、ある地域の知人の娘が子供を産み、そのお祝いにご祝儀を渡したことが発覚したのだが、僅か5万円の寄付行為により、再選を果たすことができなかった。 しかし、対立候補が長になるのは良いが、またもや、同様の寄付行為が発覚し、公職選挙法違反により公民権停止処分。よって、その長の選挙はやり直しとなり、結
本日、久しぶりに某店でチャーシューラーメンと餃子を注文したのだった。カウンターに立つのは、母親の後を継いだ息子。話しかけると、ちゃんと対応してくれる、とても愛想の良いお人柄である。 目の前に出されたチャーシューラーメン。以前、母親が店を取り仕切っている時の味とは違う。スープがやや薄く、濃くと深みを感じない。よって、スープが全く麺に絡まない。 また、チャーシューも中途半端で、それ自体の味の主張がなく、スープと麺とチャーシューが一体化していないのである。 筆者なりに
何度か取り上げてきたが、再び、フォロワー増のために、フォローする人がいた。異論反論は覚悟の上だが、筆者が感じたものをダイレクトに書き綴ることに。 数ヶ月ぶりにチェックをしたが、8人ほどがフォロー切り。その半分ほどが、フォロワーは多いようだが、自らフォローしている人が「0」というのは、これ如何に!? 多分、自分自身はフォロー「0」でも、これほどまでにフォロワーが大勢いるという演出が楽しいのだろう。姑息なフォロワー増の愚策である。 そのようなことをして何になるのか、
面白いもので、表題のように言い放つ人は、よっぽど幼い頃から叱責されては憤慨して、叱責されたものを認めず、改善せずに大人になったに違いない。 しかし、論点が面白いのは、「この歳になって叱責される必要はない」という根拠は何なのか理解に苦しむ。それが正論ならば、歳を重ねれば、誰しも叱責を受けぬほどの人格者になり、偉くなれると言うことか!?(苦笑) 無闇矢鱈に難癖のような他者からの叱責ならばそれで良し。ただ、叱責は優しさの表れである点を理解できないのが、哀れでならない。相手
今、筆者の目の前には数人の問題児(熟年男性)がいるが、何ヶ月、何年経っても、堂々巡り。聞く耳を持たぬどころか、今の自分を客観視することなく、歳を重ねるにつれて、加速度を上げて落ちている。 物の本に「頼まれたら2秒以内に動け」ということを書かれたものがあったが、問題児は分かったような言葉は返ってくるものの、我々の一般社会人としての常識の尺度が随分ずれているように思えてならない。 よって、1日の大切さを忘れ、我々であれば1日で完結できることを、それが1週間、1ヶ月、そし
Xに対抗して、俄に人気が高まりつつあるSNSの「Bluesky」だが、アカウント登録しても、殆どフォローが来るのは外国人のみ。11月16日にスタートしたばかりなので、フォローが42、フォロワーが18と可愛いものだ。 ところが、フォローしてきた人の中で、既に、5人ほどをブロックすことになった。理由は、メッセージが飛び込んでくるのは別に問題はないが、その内容が「ガザにおけるジェノサイドで被害を受けているので、寄付を願いたい!」と、厚顔無恥なる金銭要求である。 ウクライナ
フェイクが蔓延しているSNSの世界。愉快犯も確信犯も、いろんな問題児が暗躍する地獄絵巻となっている。敢えて、問題児というのは、筆舌に尽くし難いほどに稚拙な愚行や蛮行が多いからだ。 SNSで世の中を騒がせ、自らが晒し者になっても、目立ちたい、有名になりたいと、馬鹿げた価値観にてモラルなき蛮行を繰り返す輩がいる。 世のため人のために何もならぬ事を行い、結局は捜査当局に検挙され、更に、SNS上ではその倍返しで犯罪人として個人情報が延々に拡散されていく。 ここで、Goo