シェア
<茶碗の持ち方、箸の使い方> 身近なところから語れば、茶碗の持ち方や箸の使い方。礼儀正しく使える人は極稀である。幼い頃から教えられていないところを曝け出し、社会人として公然と赤恥をかいてしまうことになる。
何度か取り上げてきたが、再び、フォロワー増のために、フォローする人がいた。異論反論は覚悟の上だが、筆者が感じたものをダイレクトに書き綴ることに。 数ヶ月ぶりにチェックをしたが、8人ほどがフォロー切り。その半分ほどが、フォロワーは多いようだが、自らフォローしている人が「0」というのは、これ如何に!? 多分、自分自身はフォロー「0」でも、これほどまでにフォロワーが大勢いるという演出が楽しいのだろう。姑息なフォロワー増の愚策である。 そのようなことをして何になるのか、
面白いもので、表題のように言い放つ人は、よっぽど幼い頃から叱責されては憤慨して、叱責されたものを認めず、改善せずに大人になったに違いない。 しかし、論点が面白いのは、「この歳になって叱責される必要はない」という根拠は何なのか理解に苦しむ。それが正論ならば、歳を重ねれば、誰しも叱責を受けぬほどの人格者になり、偉くなれると言うことか!?(苦笑) 無闇矢鱈に難癖のような他者からの叱責ならばそれで良し。ただ、叱責は優しさの表れである点を理解できないのが、哀れでならない。相手
今、筆者の目の前には数人の問題児(熟年男性)がいるが、何ヶ月、何年経っても、堂々巡り。聞く耳を持たぬどころか、今の自分を客観視することなく、歳を重ねるにつれて、加速度を上げて落ちている。 物の本に「頼まれたら2秒以内に動け」ということを書かれたものがあったが、問題児は分かったような言葉は返ってくるものの、我々の一般社会人としての常識の尺度が随分ずれているように思えてならない。 よって、1日の大切さを忘れ、我々であれば1日で完結できることを、それが1週間、1ヶ月、そし
Xに対抗して、俄に人気が高まりつつあるSNSの「Bluesky」だが、アカウント登録しても、殆どフォローが来るのは外国人のみ。11月16日にスタートしたばかりなので、フォローが42、フォロワーが18と可愛いものだ。 ところが、フォローしてきた人の中で、既に、5人ほどをブロックすことになった。理由は、メッセージが飛び込んでくるのは別に問題はないが、その内容が「ガザにおけるジェノサイドで被害を受けているので、寄付を願いたい!」と、厚顔無恥なる金銭要求である。 ウクライナ
フェイクが蔓延しているSNSの世界。愉快犯も確信犯も、いろんな問題児が暗躍する地獄絵巻となっている。敢えて、問題児というのは、筆舌に尽くし難いほどに稚拙な愚行や蛮行が多いからだ。 SNSで世の中を騒がせ、自らが晒し者になっても、目立ちたい、有名になりたいと、馬鹿げた価値観にてモラルなき蛮行を繰り返す輩がいる。 世のため人のために何もならぬ事を行い、結局は捜査当局に検挙され、更に、SNS上ではその倍返しで犯罪人として個人情報が延々に拡散されていく。 ここで、Goo
noteをスタートして、まだ、3年ほど(実際に投稿開始して2年10ヶ月弱)だが、これまで投稿した記事が3,337本。そして、昨夜通知があったように「スキ」が73,000件とは、ただ、ただ、感謝するばかり。 日常の人間模様や社会事象、そして本業のICT、生成AI、Apple Macの真髄などを、思いつきで書き綴る、エッセイやコラム。 後ほど読むと、恥ずかしいものもあり、また、無駄な記事も多い。自己評価であるが、良く言えば人間らしく、悪く言えば拙い記事が多いということに
ある日突然、これまでの真摯な態度とは真逆に、聴く耳を持たなくなり、開き直る人がいる。 開き直りというのは、自分の失態などを認めたくないという、身勝手な考え方からきており、その開き直りにて問題点を無視し、片付けようとしているに過ぎない。 開き直りは、その段階にて自らの敗退を認めることになる。それも根拠なく、言い訳だらけで開き直ったとしても、誰も頷く者はいない。 それこそ、不誠実さが一気に噴き出すことになるので、開き直りする人はが不味いと気付いたとしても、その信頼回
如何に多様化の時代といえども、目の前にて、筆者と同性である男性が三度も泣くのを見ると、「嘘泣き」であるとしか思えない。 そうやって、自らの都合の悪い場合に、秘策として飛び出すのが「嘘泣き」なのだろうと確信する次第。 長年社会人としての他者との接点にて、「嘘泣き」をした人間は二人記憶している。一人は経営者であり、もう一人は中間管理職の人間である。 筆者としては、「嘘泣き」ほど恥ずかしいものはなく、だらしないとしか言いようがない。その場凌ぎの「嘘泣き」を何回繰り返せ
外見など体裁を重んじるのは、誰しも同じこと。しかし、程度というものがある。よって、体裁ばかりに気を取られてパッチワークしていると、全く中身が伴わぬことになる。これが、「遣ってる感」丸出し人間の典型なのだ。 面白いことに、体裁ばかりを重んじていると、一見、仕事が捌けそうだが、結局はボロが出てしまい、引っ込みがつかなくなる。如何に虚栄を張り、自己過大評価をそのまま他者に対して演じてきたかということである。 体裁で仕事をする人と、死に物狂いに仕事に立ち向かう人とは比較にな
SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の台頭により、時代が刻々と変化している。 昨日の兵庫県知事選を例にとると、筆者のように直接関係がない者でも、旧メディアの報道内容に違和感を覚え、エビデンスの有無に疑問を抱いていた。百条委員会の報道を見ると、公開裁判のような異様な空気があり、質問も感情的かつ高圧的である場面が多く、言葉の暴力を感じることがあった。 報道が中立かつ公正であったか疑問が残る中、段々と状況が怪しくなっていった。知事の出直し選挙では、失職した元知事が
時折、頭の使い方が非常に下手な人がいる。欲目て見ても、距離感や価値観が的外れであったり、論理的思考が核心からズレいる。本人は良かれと思い、一所懸命に演じているようだが、どうやら、頭の使い方が上手いとは言えない。 原因と結果の経緯の解釈が浅く、整合性がない。可能性に対する認識が甘すぎる。相手が欲するものを見分けられない。何度も頭の中で考え抜き、消去法にて無駄無理なものを削ぎ落とし、核心を突けばいいものを、とんでもない方向へと舞い上がっている。 今、何が重要なのか。今、
他者のことは言えないが、以下は、自戒を込めての話である。 表題の通り、営業下手な人は、先ず、行き当たりばったりにて、営業先を研究していない場合が多い。現地で、商材のことよりも、自分のことをアピールするという間違った手法にて交渉している。 最悪の場合、アポイントメントを取らずして、相手先を訪問。門前払いを喰っている。アポは営業の基本であり、ただ、夢遊病者のように足を運んで、相手先が笑顔でウェルカムになるはずがない。 更に、商材を売り込むのに、自分自身のスキルを披露
ニュースを見ていると、西大関 豊昇龍と西前頭3枚目 熱海富士の一戦が目に入ってきた。 土俵際で劣勢に立たされた豊昇龍の体は、左足踵だけが俵に乗り、全身はすでに土俵外にて死に体となっている。熱海富士の方は、右足つま先が土俵を割っている。 どちらを応援している訳でもないが、その時思ったのが、豊昇龍の死に体と熱海富士の勇足のどちらを取るかに関心が高まった。 筆者としては、体全体が土俵外に出て死に体となっているのが不利と見て、熱海富士の優勢に勝利の女神が微笑むのかと思い