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「無理だけはしないで」の「無理」がわからない

最近、朝から晩まで記事を書いている。

売れっ子ライターの定義ってなんだろう、と考えたときに「依頼が途絶えないライター」かもしれないと思った。

そうだとしたら、わたしはいま、売れっ子ライターと言っても過言ではないだろう。(過言です)

明日も早く起きて記事を進めようと思い、何が何でも起きるために、アナログの目覚まし時計までセットして寝た。もちろん、iPhoneのアラームは5分刻みにセットしている。


明け方、4時。

ピピッ、ピピッと、小さいけれども、確かにはっきりと意志を持った音が耳に飛び込む。あわてて時計を手に取り、アラームをOFFにする。そばではiPhoneが、無邪気な爆音を奏でている。

今日はお出かけするので、出発までの4時間くらいで一気に仕上げなきゃ。

そう思ったのに、身体が動かない。


起きなきゃ。

わかっているのに、身体は動かない。


起きて、書かなきゃ。

なんだか、心臓のちょっと横が痛い。


少しでも、執筆を進めなきゃ。

身体の真ん中、胸のあたりがキューーーーっとしめつけられる。


なんだこれ、苦しい。

胸を押さえつけながら、ああ、そうかと理解した。


「無理」が来たのだ。

あれほど言われていた「無理だけはしないで」の「無理」が来てしまった。




トラブルが起き、日付が変わるまで残業している友人に「無理だけはしないで」と言う。

インフルエンザになったので、納品1日だけ遅れてもいいですか?と連絡してきたライターさんに「無理だけはしないで」と言う。


でも、本当はこうも思ってる。

「無理だけはしないで」の「無理」が、わたしにはちっとも、わからない。


他人の「無理」ならわかるくせに、自分のことになると途端に「無理」がさっぱりわからなくなる。

日付が変わるまで仕事なんかしちゃいけない。インフルエンザになったなら休むべき。

納品が1日遅れるなんて気にしている場合ではないし、この世に、命より優先すべき仕事なんて、ほとんどない。あるとしたら、それこそ、命に直接的にかかわる仕事だけだと思う。

だから言う。

「無理だけはしないで」と。

それなのに、自分は無理をしていたらしい。やっぱり、全然わかっていなかったじゃないか。

無理、してたんだ。


あー、もういいや。月曜日にしよう。

そう思ったら、少しだけ気持ちが軽くなった。

わたしが今朝、アナログの目覚まし時計をひっぱたたいてまで進めたかった仕事は、納期なんて、1週間も先の仕事だ。

ぜったいに今、やっておかなくちゃいけない仕事ではない。


気持ちは軽くなったけれども、目は覚めてしまい、なんだか眠れそうにもない。

せっかく起きたので、好きなことに時間を使おう。

気持ち軽やかにお布団から抜け出し、トイレに向かい、顔を洗って歯を磨いたら、お湯を沸かす。ガスコンロを付けたときの「チチチチチチチ」より軽快な音を、わたしは知らない。


青くゆらめくコンロの炎を眺めながら「無理ってなんだろう」と考えた。

そういえば、以前、デザイナーをやっている友人に「みんながみんな、ちいかまさんみたいに、お湯を沸かしたら悩みが消えることはないと思うよ」といったことを言われた。

そうかなあと思う。

炎の揺らぎは「1/fゆらぎ」とか言うではないか。お湯を沸かしながら青い炎を眺めるのは、キャンドルを見て心がまあるくなるのと同じだと思う。ただ、炎がガスコンロから出ているかどうかの違いなだけで。

そんなことを考えていたら、やかんは、しゅんしゅんと音を立てながら白い煙を上げている。お湯が沸いた。

結局「無理」が何なのか、わからなかった。

ちいかまさんも、みんなみたいに、お湯を沸かしても解決できない悩みがあったらしい。




お白湯を飲みながら(朝いちばんに身体に入れるものは、お白湯と決めている)本棚をぼーっと眺める。

遠藤周作、寺山修司、シェイクスピア、星新一、安部公房。星の王子さま、ウエハースの椅子、月と六ペンス、西の魔女が死んだ。

たくさんの本が並んでいるのに、たくさんの言葉が並んでいるのに、ぜんぜん読んでいなかった。言葉がもっている美しさを、読書からしか得られない快楽を、わたしはずいぶん長いこと、味わっていない。

言葉が好きで、文章が好きでライターを目指した。憧れの文章を書く仕事だけで生計を立てられるようになったのに、なぜだかちっとも満たされないときがある。

なぜだろう。

お白湯を胃に落とすと、じんわりと染み渡る。五臓六腑に染み渡るとはまさに。胸の下がほんのりと温まってくると、急に「朝は私だけの時間だ」と思えてきた。

ふと、ジョージ・オーウェルの『動物農場』が目に留まる。

『動物農場』を買ったのは、わたしが熱海で暮らしていたときのことだった。




当時、熱海の温泉旅館で働いていたわたしは、午前中に仕事を終えると、そのまま勤務先の温泉につかるのが日課だった。

太陽がきらきらと、海の水面に反射してまぶしい。観光地の温泉に、お昼過ぎまでのんびり入っている稀有な観光客なんてほとんどおらず、浴場はいつも貸し切り状態だった。

温泉から上がると、冷たいカフェラテを買って、熱海のビーチを歩く。火照った身体が、熱海のおだやかな海風で、ゆっくり冷まされていく。

ビーチを端まで歩くと、誰もいない堤防がある。

よいせっと登り、両手両足を思いっきり広げて寝っ転がる。背中越しのコンクリートがひんやりと冷たく、心地よい。そのまま深い眠りに落ちていく。

どれくらい眠っていただろうか。不意に、遠くから聞こえてくる船の汽笛で目を覚ます。

眠気が飛んですっきりとした気持ちで、氷が溶けて薄くなったカフェラテを飲みながら、買ったばかりの『動物農場』を読み進める。

誰にも邪魔されず、自分だけの時間で、自分だけのペースでゆっくりと、好きなように。

陽が少し傾くと部屋に戻り、夕方からの仕事に向けて準備をする。

着替えを済ませ、手短かに身だしなみを整えると、お茶を飲みながら『動物農場』の続きを読み進める。

ページに落ちてくる陽射しがやわらかいのは、春が近いからだろうか。それともここが、熱海だからか。

旅館の仕事は楽しい。労働そのものって感じで、あくせく歩き回り、手を動かし、宿泊客や同僚に気を配り、充実感を得る。

働きながらも「あー、農場の彼らはどうなっちゃうんだろう」なんて空想に耽り、仕事を終え、温泉につかり、髪を乾かしつつ「新しい本を買おうかな」なんて考え、飽きもせず火照った身体でビーチを散歩し、ほどよい疲労感を感じながら眠りにつく。

そんな日々。


あの頃のわたしには、まちがいなく、快楽があった。

読書の、文章の、言葉の快楽があって、ただひたすら「文学的な快楽」に溺れていた。

熱海の日々を思い出して、苦しい気持ちで『動物農場』を1ページずつめくっていく。

マグカップに入れたお白湯はすっかり、つめたくなっている。


好きで始めた仕事なのに、好きでやっている仕事なのに、ときどき満たされないのはどうしてだろう。

どうして、わたしは好きを「やらなきゃ」に変えてしまうのだろう。

どうして、それを「無理」だと気づけないのだろう。


「無理だけはしないで」の「無理」はわからないけれど、たぶん、もう少し休んでもいいのかもしれない。

書くことから少しだけ距離を置いて、好きなことに、快楽に、没頭したいな。


なんて考えながらも、結局これを「書いて」しまっているのだ。

書くのは、好きだ。

好きに、理由なんて無い。

だから「無理」をしてしまうのかもしれない。

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ちいかま
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