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最期


今、家族旅行に来ている。
イン伊豆。!
住んでいる所から、2時間もかからないで来れてしまうので私達家族にとっては定番の旅行地だ。
今回は、姉2人、その姪っ子たちと、母と私の6人女旅。

母は、昨年ごろから身体を崩している。
腰の骨を痛そうに摩りながら、「もう旅行なんて行けないのかも」と呟いていた昨年冬。
今ではなんとも素晴らしい事に、母の容態も少しずつ回復しつつある。
今だ!と思ったこのタイミングで女旅を、母の誕生日月である2月に姉妹3人で計画したのである。

小さい子供がいるので少し大変ではあるが、それなりにゆったりと遊べて、宿での食事や露天風呂などもしっかりと満喫できた。


久しぶりに母と湯船に浸かった。
露天風呂。辺りはすっかり静かで、風で揺れる木々たちのざわめきしか聞こえてこない。
お湯に浸かっている以外の身体の部分が、冷たい風に吹かれて、気持ちが良かった。
姉達はというと、中にある少しぬるっぽい浴場に浸りながら、楽しそうにはしゃぐ姪っ子達を必死になだめながらお喋りしていた。


母と2人、母がぼそっと呟いた。
「見せてあげたかったな」
母の母、私のおばあちゃんにあたるその人は
認知症を患って施設にいる。
おばあちゃんは綺麗なお花や綺麗な景色をこよなく愛す人だった。
露天風呂からかすかに見える、伊豆の有名な早咲き桜、河津桜を見ながら、母は涙ぐみながら又こうも言いました。
「最期だと知っていたらな」


私も何度か、同じ事を思った事がある。
私はまだ21歳だが、知らぬ間に、もう2度と会えなくなってしまった子がいる。
最期だと、知っていたら。
悔やんでも悔やみきれないその想いは数年経った今でも褪せることは無い。
最期だと知っていたら。
もう少し優しくできていたのかな、何かしてあげられたんではないか、もう少し一緒に笑いあえば良かったな。
そんな事を思い始めたらキリがないけれど、
私だけでなく、人は、知らぬ間に、あっという間に、相手との最後の瞬間を味わっているのである。同じ場面は2度と戻ってこないのだから、それは当たり前のことだけれど、その日が本当に相手と会う最期の日になる事もあり得るのだ。
また明日ね、なんて言ったのに。

私は涙ぐむ母を横目に、気を取り直して
「また女旅しようね!たくさん旅しようね。」と言った。
そう言った瞬間、私もまた、母に、母が思った事と全く一緒の事を思ってしまった。
これを最期にしたくない。
なんて、思っても、もしかしたら、最期になるのかもしれない。
でも逆にそう思うと、今を噛み締める事ができた。

神様は意地悪だから、最後が最期だと教えてくれない。
だって、もう生でつんく♂の歌声が聞けなくなるなんて、全国民が思ってもみなかったでしょう。
マイケルジャクソンの来日が2007年3月で最期になるなんても、きっと思わなかったはずだ。
そうやって、別れは急にやってきてしまうんです。教えてくれないんです。

でも、つんく♂のそれ以降の頑張りや、マイケルジャクソンの存在の偉大さ、そしてもう2度と会えないあの子との別れや、もう2度と行ける事のない母の母との旅行は、私に、それはそれは大切な事を教えてくれたんです。

「最期」を無駄にしない事。
「最期」には、絶対に学びがあるんです。
相手との最期が分かることは、これから先もある事はないけれど、これが最期になるかもしれない。という残酷ながらも誠な考えは人間にとって常に、思うべき大切な事だと思うんです。
毎瞬間毎瞬間、そう思う事は難しいのだけれどね。
心の底から楽しい!と思った日の帰り道に、虚しく寂しくなるのは、きっとまた、会えるのだけれど、もしかしたら会えなくなる人が出てくるのかもしれない。と思ったり、こんなに楽しかった日がもう一度再生される事なく時間が進んでいく不安からなのだと考える。
私は”最期”とこれから先も闘う事になりそうだ。

母との旅行が、今回で最期だった、という事がもし本当に起こったとするのなら、私は酷く絶望する事だろうと思う。しかし、その最期を私は絶対に、”学び”に替えてみせたいと思う。たとえ何年かかかろうとも。
その最期が教えてくれたものたちを財産にしなければ、あまりに勿体ない。と、気づいたからである。

あの子を通しても、17歳あまりで覚えたあの絶望と耐え難い取り残された感を、私は20歳を超えてからやっと学びに替えられた気がするのだ。
いつまでたってもくよくよウジウジしていたら
“最期” を教えてくれた人達に、合わす顔がないじゃない。
逆にありがとうね。


ただ、相手と最悪な別れ方をした日が、最期の日になるなんて事は避けたいものです。
でもそれは、意外と簡単で、日々の言葉達で少しは避けれるようになるのです。
「ありがとう」「ごめんね」「気をつけてね」
日頃の”当たり前”に溶け込んでいますが、魔法の言葉たちだと思います。

あとは、好きならちゃんと、相手に分かる愛を伝える事。
これも、日常生活の”当たり前”に溶け込んでいる罠です。
もっとたくさん、愛を伝えていきたい、そして伝えてほしい。
今日が最期になったとしても、自分にとって、相手にとって悔いのない日を毎日意識して過ごす事が出来たのなら、私はもっと自分を愛す事が出来るのかな。

そして、私自身が突然、この世から消えてしまう事があったとするのなら、私の愛するみんなからはどういう印象の子になるのでしょう。
面白くて馬鹿で派手な子だったね、なんて私の”最期”を笑って、思ってもらえてたら最高です。

そう思ってもらいたいので、私は今日も明日も面白く、馬鹿で派手に生きていきます。

そしてもちろん、
魔法の言葉たちを絶やす事なく。


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