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瞑想は「無」になること…?無になるの正体を暴く!後編①


前編では、本題の理解を深めるために、
瞑想を定義づけました…

「感じる」ことで 「今、ココ」に居続ける。
ことで、「心が反応しない状態」にする。
そうする事で、
後悔や不安、悩みやネガティブから
心が解かれる、解放される。

これが、瞑想でやりたい事の「1つ」
なのです。

☝️このように定義づけました。

そして、「心が反応しない状態」 にするために、
瞑想の種類によってのアプローチ方法の違い。

について、クリアにしました。

後編①は、前編を踏まえて本題である…
サマタ瞑想における、
「無になる」状態とは?と紐解き、
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想(後編②)
の無になる状態の違いを明確にし、
あーーー。だから「無になる」って言われるのね!
と、合点がいけばいーな。と思います。


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さて、瞑想において「無」になる…って、
皆さんどんなイメージですか?

アタマの中が空っぽになるイメージ?
それとも、
心が静かになって、雑念が無くなるイメージ?
それとも、
欲がなくなるようなイメージ?
とか、
無心のことじゃなぃ?
とかとか…

無になる。
って言っても、人それぞれのイメージは違うんじゃないかな…と感じます。

でも、大きなくくりで見ると、
頭の中で起きてること、
または、心の中で起きてることのあれやこれやを、
無くす
思考による、感情や欲、アタマの中で勝手に展開される連想ゲームやストーリー達…
「過去や未来」意識が飛んでしまった時に、
起こる「心の反応」を無くす
のが=無。

既に、前回答えが出ていた。
ってことになっちゃいますがw

ただ、個人的には「無になる」=瞑想。だと、
全部を表現しきれていないと思うし、
それぞれの瞑想法で「無になる状態」に違いがあるので、
ご参考になれば。と思う次第です。

なので、ココからは、
前回説明した瞑想、サマタ瞑想において、
「無になる」状態とは、
どういう状態なのか?を見ていきたいと思います。

・サマタ瞑想での「無になる」状態とは?

集中する対象とするものを決めて、
そこに意識を集中し続けるのがサマタ瞑想。

そこで「無になる」状態とは、
意識を置く対象とするもの以外の雑念や、
五感からインプットされるものが、一切無くなる…
わけではなくて、

「対象以外が、あることは知っているけれど、
意識が対象とするものにあり続ける状態。」


詳しく言うと、対象とするもの以外の…
アタマの中に、勝手に浮かんでくる「今、ココ」じゃない、雑念(自分の「考え・思考」)や外部からのインプットが止んだように感じ、それに伴う「心の反応」 が無くなったように感じる…
要は、集中しまくっていて、
周りのことが気にならなくなっている状態。


その状態が、更に深まると対象以外、
何も無いような感覚になる。
それを言語化して、
対象とするものと、自分が一体になった感じ。
とか、
自他の境が無くなった感じ。
などの表現になるのだと思います。

サマタ瞑想においての
「無になる」状態の正体は、ココ☝️。

例えば…
読書に夢中になっていて、
電話が鳴っていることに気づかなかった。
なんてことありませんか?

でも、良く良く記憶を辿ると、
なんか鳴ってたかもなぁ…と、
うっすら…なんとなーく記憶にある。

こんな状態です。
(もちろん、全く記憶にない事もありますけどw)
この状態、つまり深い集中状態にある時って、
感情に振り回されてたり、考え事とかしてないですよね?

言い換えれば、何かに没頭してる。
これは、サマタ瞑想と同じことなわけです。
自分が好きなものには、没頭できるのに、
いざ「瞑想」 とか言われると、
身構えてハードルが上がちゃう……って方は、
何かに没頭している。
のが、サマタ瞑想。と思ってください。

没頭している。と、考えると、
誰しもが体験した事がある状態、とも言える。
集中瞑想の状態には、
ただ坐って瞑想じゃなくても、瞑想状態にはなれる
ってことなのです。

だから、サマタにおいての「無になる状態」とは、
何かが無くなってるワケではなく、
繰り返しになりますが、
集中対象以外あるのは何か分かってるけど、
意識が対象に集中している。という状態
で、
カンタンに言えば、没頭状態である。
その没頭状態により、「今、ココ」 意識を置くことで、
「思考」による「心の反応」 つまり、悩みや不安、ストレスなどから解放されることに繋がるワケです。

では、ヴィパッサナー瞑想においての
無になる状態とは、どんな状態なのか?
は、次回へ続くw

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