なぜ「俺はそうは思わない」で意見を主張できるようになるのか
「逆ソクラテス」、面白かったです。伊坂幸太郎氏の作品。
タイトルからしてやられました。「『逆ソクラテス』って何だよ」という初見殺し。「舞台は古代ギリシャなのか? それともソクラテスのような天才が出てくるのか? それにしても「逆」って何だよ。何が「逆」なんだよ。」
1.「俺はそうは思わない」から意見が始まる
ストーリーも痛快でした。
打点王氏が草壁を褒めるところ。褒めてくれて良かった。「中学校になったら野球部に入るといい」と言ってくれて。言われた草壁が喜んで。私も、久留米に対して「ほうら、見ろ」と思って。
で、草壁の心情変化のところ。安斎から教えられた「俺はそうは思わない」を言ったところは快感です。「よく言った草壁!」と私も手を叩きました。
草壁は変わりました。「俺はそうは思わない」と言ってから、自己主張できるようになったのです。どうして、この言葉で草壁は意見を主張できるようになったのか。「俺はそうは思わない」と、意見を言うことにはどんな関係があるのか。そこを説明しましょう。それは、「俺はそうは思わない」は反論であり、反論は意見を主張することそのものだからです。
2.「俺はそうは思わない」は反論である
「俺はそうは思わない」は反論です。
反論とは、相手の主張と反対の主張をすること。goo辞書によると、「反論」とは
とのこと。「俺はそうは思わない」は、相手の主張に反対しており、反論です。安斎が草壁に言いたかったのは、「相手に反論しよう」というものだったのですね。
もしかしたら、「俺はそうは思わない」に対して「反『論』というほどのものでは無いのではないか」と思う人がいるかも知れません。確かに「俺はそうは思わない」では何も論証されておらず、「論」というには稚拙です。が、反論のためのきっかけになります。ここに理由をつければ反論としての最低限の体裁は取れるのですから。
3.反論は、意見の主張そのものである
「『俺はそうは思わない』は反論である」と書きました。それがどうしたのかと言うと、これが意外と大事なんです。というのも、反論は、意見を主張することの本質だからです。レトリック学者の香西秀信氏は著書「反論の技術」で次のように述べています。
つまり、「意見を言うのは、他人の意見に反対することであり、それは反論することだ」というです。
当然、次のように疑問に思う人もいるでしょう。「賛成意見だってあるじゃないか」と。確かに「私はアナタに賛成です」と言う場合、意見の対立は無いように見えます。が、これも対立です。なぜなら、「私はアナタに賛成です」という賛成意見は、「私」や「アナタ」の意見に反対する意見の持ち主を想定しているからです。誰かへの賛成意見は、ただでは「私たち」に賛成しない人がいるだろうという意識の表れなのです。
また、次のような場合はどうなのでしょう。一番はじめに意見を言う場合です。例えば会議などで誰かが口火を切って喋り始める。これも誰かに対する反論なのでしょうか。実は、ここにも意見の対立があります。それは、可能性としての反対意見を想定しているのです。皆が同じ意見ならば、わざわざ誰も意見を言おうとはしません。たとえその話題についての初めての意見であっても、意見を言う人には「賛成する人ばかりではないだろう」という可能性を認識しており、ここに意見の対立があるのです。
意見を主張するとは、反論することなのです。
4.「俺はそうは思わない」から始めよう
このように、「俺はそうは思わない」は反論であり、反論は意見を主張すること。故に、「俺はそうは思わない」というその一言が、意見を言う事のきっかけになるのです。安斎の教えは正しいし、草壁が意見を主張できるようになったのも理に適っていると言えます。
意見を言えない自分を変えたいと思ったら、「俺はそうは思わない」から始めましょう。意見を主張するきっかけになります。
それを言えるようになったら、今度はその後に理由を続けましょう。どうして「俺はそうは思わない」と言えるのか、その理由です。主張は理由で支えられることで論になります。相手に反対の意見を主張し、それを理由で支えることで、いっぱしの「反論」になります。
意見を主張することのきっかけとして、最初の一言として「俺はそうは思わない」はお勧めです。
参考
最後、安斎がチンピラになったというのが切ないですね。安斎も、自分が「俺はそうは思わない」ということで「犯罪者の子」という人生を覆したかったのでしょう。大人びている安斎も、草壁や加賀と同じ様に、人生にもがいていたのです。「他人へのアドバイスは自分へのアドバイス」なんて言葉を聞いた事があります。「誰かへアドバイスは、自分が自分で気になっていること」だという意味。これはそのまま安斎に当てはまるんですね。自分が犯罪者になりたくないがゆえに、安斎は草壁に「俺はそう思わない」という言葉を贈ったのです。
良書。内容も素晴らしいし、それを綴る言葉も素晴らしい。例えば、この言葉。
意見の正しさを証明するためには反論してみることが必要、であることを説いたもの。意見がいかに正しいかは、反論にいかに耐えられるかを試してみなければなりません。私たちが意見を言う時、どんなに自説を論証したとしても、数学のように客観的な証明ができるわけではありません。日常生活での意見は、演繹的に論証されるものではない。ではどのように論証され得るのかと言うと、反論に耐えられることで論証される。正しさが証明される。反論されて、それに揺らがないのであれば、その意見は正しい。「反対意見のないところでは、どんな脆弱な意見も安泰でいられる」のです。
「脆弱」とか「安泰」とか、このように的確かつキレイな日本語を随所に使ってきます。説明にも皮肉やユーモアが見られ、「知的な面白さ」といった感じです。